二宮翁夜話 / 巻之五
翁曰、凡物一得あれば一失あるは世の常なり、人の衣服に於る甚煩はし、夏の暑にも冬の寒きにも、糸を引機をおり、裁縫ひすゝぎ洗濯、常に休する時なし、禽獣の自ら羽毛あり、寒暑を凌ぎ、生涯損ずることなく、染ずして彩色ありて、世話なきに如ざるが如しといへども、蚤虱羽虫など羽毛の間に生じ、是を追ふに又暇なきを見れば、人の衣服、ぬぎ着自在にして、すゝぎ洗濯の自由なるに如ざる事遠し、世の他をうらやむの類、大凡斯の如き物也。
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、凡(およ)そ物一得あれば一失あるは世の常なり、人の衣服に於(おけ)る甚(はなは)だ煩(わずら)はし、夏の暑にも冬の寒きにも、糸を引き機(はた)をおり、裁縫(たちぬ)ひすゝぎ洗濯(せんたく)、常に休する時なし、禽獣(きんじゅう)の自(おのず)から羽毛あり、寒暑を凌(しの)ぎ、生涯損(そん)ずることなく、染(そ)めずして彩色ありて、世話なきに如(し)かざるが如しといへども、蚤(のみ)虱(しらみ)羽虫など羽毛の間に生じ、是を追ふに又暇(いとま)なきを見れば、人の衣服、ぬぎ着自在にして、すゝぎ洗濯の自由なるに如かざる事遠し、世の他をうらやむの類、大凡(おおよそ)斯(か)くの如き物なり。
現代語訳
翁が言われた。およそ物事は一つ得るところがあれば一つ失うところがあるのが世の常である。人の衣服はたいそう面倒だ。夏の暑さにも冬の寒さにも、糸を紡ぎ機を織り、裁縫し、すすぎ洗濯して、いつも休む暇がない。鳥や獣は生まれつき羽毛があり、寒暑をしのぎ、生涯傷むこともなく、染めなくても彩りがあって、手間のかからない点で人には及びもつかないように見える。しかし、蚤や虱や羽虫などが羽毛の間にわいて、それを追い払うのにまた暇がないのを見れば、人の衣服が脱ぎ着自在で、すすぎ洗濯も自由にできるのには遠く及ばない。世間で他人をうらやむのは、だいたいこういうものである。
解説
「一得あれば一失あり」――物事には必ず利と不利が伴うという世の理を、衣服と鳥獣の羽毛を対比して説いた一条です。人の衣服は紡ぎ・織り・裁縫・洗濯と手間がかかり、鳥獣の羽毛は生まれつきで手がかからず美しい。一見うらやましいが、その羽毛には蚤や虱がわいて追うのに暇がない。脱ぎ着でき洗える人の衣服にはとても及ばない――と尊徳は説きます。他人の恵まれた面だけを見てうらやむのは、その裏にある不利を見ていないからだ、という洞察です。身近な観察から人生の道理を引き出す尊徳らしい教えで、隣の芝生が青く見える現代の私たちに、自分の境遇の利点に目を向け、足るを知る心の大切さを教えてくれます。
この章句が説くこと
二宮翁夜話報徳一得一失足るを知る世の道理分度