二宮翁夜話 / 巻之五
翁曰、大久保忠隣君、小田原城拝領の時、家臣某諫て曰、当城は北条家築建にして、代々の居城なれば拝領相なるとも、当城守護と思召れ、本丸の住居は、遠慮有て然るべし、拝領なればとて拝領と思召す時は、御為如何あらん、且城の内外共、御手入れ等なく、先其儘に置れたしと献言せしかど、忠隣君剛強の性質なれば、縦令北条の居城にもせよ、築建にもせよ、今忠隣が拝領せり、本丸の住居、何の不可か有らん、城の修理何の憚る処か有らんとて、聴たまはず、其後行違ひありて、改易の命あり、是嫌疑に依るといへ共、其元、気質の剛強に過て、遠慮無きに依れるなり、夫熊本城も本丸は住居なく、水戸城も佐竹丸は住居なしと聞けり、何事にも此理あり、心得べき事なり。
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、大久保忠隣(ただちか)君、小田原城拝領の時、家臣某(ぼう)諫(いさ)めて曰く、当城は北条家築建(ちくけん)にして、代々の居城なれば拝領相(あい)なるとも、当城守護と思召(おぼしめ)され、本丸の住居は、遠慮(えんりょ)有りて然るべし、拝領なればとて拝領と思召す時は、御為(おんため)如何(いかが)あらん、且(か)つ城の内外共、御手入れ等なく、先(ま)づ其儘(そのまま)に置かれたしと献言せしかど、忠隣君剛強の性質なれば、縦令(たとい)北条の居城にもせよ、築建にもせよ、今忠隣が拝領せり、本丸の住居、何の不可か有らん、城の修理(しゅり)何の憚(はばか)る処か有らんとて、聴(き)きたまはず、其後行違ひありて、改易(かいえき)の命あり、是嫌疑(けんぎ)に依るといへ共、其元(そのもと)、気質の剛強に過ぎて、遠慮無きに依れるなり、夫(それ)熊本城も本丸は住居なく、水戸城も佐竹丸は住居なしと聞けり、何事にも此理あり、心得べき事なり。
現代語訳
翁が言われた。大久保忠隣公が小田原城を拝領したとき、ある家臣が諫めて言った。「この城は北条家が築いた、代々の居城でございます。拝領なさっても、この城をお預かりして守るのだとお考えになり、本丸へのお住まいはご遠慮なさるのがよろしいでしょう。拝領したからには自分のものだとお思いになれば、殿のためにいかがなことになりましょうか。また城の内外とも手入れなどなさらず、まずはそのままにしておかれますように」と進言した。しかし忠隣公は剛強な性格だったので、「たとえ北条の居城であろうと、北条が築いたものであろうと、今は忠隣が拝領したのだ。本丸に住んで何の不都合があろう。城の修理に何の遠慮があろう」と言って聞き入れなかった。その後、行き違いがあって改易の命が下った。これは嫌疑によるものとはいえ、もとはといえば気質が剛強に過ぎて、遠慮がなかったことによるのだ。あの熊本城も本丸には住まず、水戸城も佐竹丸には住まないと聞いている。何事にもこの道理がある。心得ておくべきことである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『酔古堂剣掃』集醒・一步を留めて人に與へて行かしむ徑路の窄き處は、一步を留めて人に與へて行かしむ。 滋味の濃き的は、三分を減じて人に讓りて嗜ましむ。 此れは是れ世を涉る一の極めて安樂なる法なり。
-
『春秋左氏伝』僖公十二年 管仲、上卿の礼を辞す十二年春、諸侯衛の楚丘の郛に城く、狄の難を懼るればなり。黃人諸侯の齊に睦まじきを恃み、楚の職を共せずして曰く、「郢より我に及ぶまで九百里、焉んぞ能く我を害せん」と。夏、楚黃を滅ぼす。王戎の難の故を以て、王子帶を討つ。秋、王子帶齊に奔る。冬、齊侯管夷吾をして戎を王に平らがしめ、隰朋をして戎を晉に平らがしむ。王上卿の禮を以て管仲を饗す。管仲辭して曰く、「臣は、賤しき有司なり。天子の二守國・高在る有り。若し春秋に節して、來りて王命を承けば、何を以てか之を禮せん。陪臣敢へて辭す」と。王曰く、「舅氏、余乃の勳を嘉し、乃の懿德に應ず、督めて忘れずと謂ふ。往きて乃の職を踐め、朕が命に逆ふこと無かれ」と。管仲下卿の禮を受けて還る。君子曰く、「管氏の世々祀らるるや、宜なるかな。讓りて其の上を忘れず。《詩》に曰く、『愷悌の君子は、神の勞する所なり』と」。
-
史記 陳杞世家此に在らずして、其れ異国に在らんか。此の其の身に非ずして、其の子孫に在らん。若し異国に在らば、必ず姜姓ならん。姜姓は太嶽の後なり。物は能く両ながら大なること莫し。陳衰へなば、此れ其れ昌えんか」と。厲公蔡の女を取る。蔡の女蔡人と乱す。厲公数々蔡に如きて淫す。七年、厲公の殺す所の桓公の太子免の三弟、長を躍と曰ひ、中を林と曰ひ、少を杵臼と曰ふ。共に蔡人をして厲公を誘ふに好女を以てせしめ、蔡人と共に厲公を殺して躍を立つ。是を利公と為す。利公は、桓公の子なり。利公立ちて五月にして卒し、中弟の林を立つ。是を荘公と為す。荘公七年にして卒し、少弟の杵臼立つ。是を宣公と為す。宣公の三年、楚の武王卒し、楚始めて彊し。十七年、周の恵王陳の女を娶りて后と為す。二十一年、宣公後に嬖姫有りて子款を生む。之を立てんと欲し、乃ち其の太子御寇を殺す。御寇素より厲公の子完を愛す。完禍の己に及ばんことを懼れ、乃ち斉に奔る。斉の桓公陳完をして卿為らしめんと欲す。完曰く、「羈旅の臣、幸ひに負檐(ふたん)を免るるを得たるは、君の恵みなり。敢て高位に当たらず」と。桓公工正と為さしむ。斉の懿仲陳の敬仲に妻せんと欲し、之を卜す。占に曰く、「是れ鳳皇于に飛び、和鳴鏘鏘たりと謂ふ。有媯の後、将に姜に育たんとす。五世にして其れ昌え、正卿に并ぶ。八世の後、之と京(おほい)なるもの莫し」と。三十七年、斉の桓公蔡を伐ち、蔡敗る。南のかた楚を侵し、召陵に至り、還りて陳を過ぐ。陳の大夫轅濤塗其の陳を過ぐるを悪み、斉を詐りて東道に出でしむ。東道悪しく、桓公怒り、陳の轅濤塗を執ふ。是の歳、晋の献公其の太子申生を殺す。四十五年、宣公卒し、子の款立つ。是を穆公と為す。穆公の五年、斉の桓公卒す。十六年、晋の文公楚の師を城濮に敗る。是の歳、穆公卒し、子の共公朔立つ。共公の六年、楚の太子商臣其の父成王を弑して代はり立つ。是を穆王と為す。十一年、秦の穆公卒す。十八年、共公卒し、子の霊公平国立つ。霊公の元年、楚の荘王即位す。六年、楚陳を伐つ。十年、陳楚と平らぐ。
-
言志四録・言志耋録 第百五十二条 愆を免るるの道愆を免るるの道は、謙と譲とに在り。福を干むるの道は、恵と施とに在り。
-
史記 魏公子列伝魏王、公子のその兵符を盗み、矯めて晋鄙を殺せしを怒る、公子もまた自ら知るなり。已に秦を卻けて趙を存し、将をしてその軍を将ゐて魏に帰らしめ、而して公子は独り客と趙に留まる。趙の孝成王、公子の晋鄙の兵を矯め奪ひて趙を存せしを徳とし、乃ち平原君と計り、五城を以て公子を封ぜんとす。公子これを聞き、意驕矜して自ら功とするの色有り。客に公子に説く有りて曰く、「物に忘るべからざる有り、或いは忘れざるべからざる有り。夫れ人の公子に徳有るは、公子忘るべからざるなり。公子の人に徳有るは、願はくは公子これを忘れよ。且つ魏王の令を矯め、晋鄙の兵を奪ひて以て趙を救ふは、趙に於いては則ち功有り、魏に於いては則ち未だ忠臣たらざるなり。公子乃ち自ら驕りてこれを功とす、竊かに公子の為に取らざるなり」と。是に於いて公子立ちどころに自ら責め、容るる所無きが若きに似たり。趙王、埽除して自ら迎へ、主人の礼を執り、公子を引きて西階に就かしむ。公子側行して辞譲し、東階より上る。自ら罪過を言ひ、以て魏に負き、趙に功無しとす。趙王侍酒して暮れに至るも、口に五城を献ずるに忍びず、公子の退譲するを以てなり。公子竟に趙に留まる。趙王、鄗を以て公子の湯沐の邑と為し、魏もまた信陵を以て復た公子に奉ず。公子趙に留まる。公子聞く、趙に処士毛公の博徒に蔵れ、薛公の売漿の家に蔵るる有りと。公子両人に見えんと欲す、両人自ら匿れて公子に見ゆるを肯んぜず。公子所在を聞き、乃ち閒歩して往きて此の両人に従ひて遊び、甚だ歓ぶ。平原君これを聞き、その夫人に謂ひて曰く、「始め吾、夫人の弟公子は天下に双び無しと聞く。今吾これを聞くに、乃ち妄りに博徒・売漿者に従ひて游ぶ、公子は妄人なるのみ」と。夫人以て公子に告ぐ。公子乃ち夫人に謝して去らんとして曰く、「始め吾、平原君の賢なるを聞く、故に魏王に負きて趙を救ひ、以て平原君に称ふ。平原君の遊ぶや、徒だ豪挙のみ、士を求めざるなり。
-
説苑・尊賢孔子閒居して、喟然として歎じて曰く、「銅鞮伯華にして死する無くんば、天下其れ定まる有らん」と。子路曰く、「願わくは其の人と為りの何如なるかを聞かん」と。孔子曰く、「其の幼きや敏にして学を好み、其の壮んなるや勇有りて屈せず、其の老いたるや道有りて能く以て人に下る」と。子路曰く、「其の幼きや敏にして学を好むは則ち可なり、其の壮んなるや勇有りて屈せざるは則ち可なり。夫れ道有らば又誰にか下らんや」と。孔子曰く、「由よ、知らざるなり。吾之を聞く、衆を以て寡を攻めて消えざる無く、貴を以て賤に下りて得ざる無しと。昔周公旦天下の政を制するに在りて士七十人に下る、豈道無からんや。士を得んと欲するの故なり。夫れ道有りて能く天下の士に下る、君子なるかな」と。

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る