二宮翁夜話 / 巻之五
硯箱の墨曲れり、翁之を見て曰、総て事を執る者は、心を正平に持んと、心掛くべし、譬ば此墨の如し、誰も曲げんとて摺る者はあらねど、手の力自然傾くが故に此の如く曲るなり、今之を直さんとするとも、容易に直るべからず、百事その通りにて、喜怒愛憎ともに、自然に傾く物なり、傾けば曲るべし、能心掛けて心は正平に持べし。
書き下し
硯箱(すずりばこ)の墨(すみ)曲(まが)れり、翁(おきな)之を見て曰(いわ)く、総(すべ)て事を執(と)る者は、心を正平に持たんと、心掛くべし、譬(たと)へば此墨の如し、誰(たれ)も曲げんとて摺(す)る者はあらねど、手の力自然傾(かたむ)くが故に此の如く曲るなり、今之を直さんとするとも、容易に直るべからず、百事その通りにて、喜怒愛憎(きどあいぞう)ともに、自然に傾(かたむ)く物なり、傾けば曲るべし、能(よ)く心掛けて心は正平に持つべし。
現代語訳
硯箱の墨が曲がっていた。翁はこれを見て言われた。すべて物事を取り仕切る者は、心を平らに正しく保とうと心がけるべきである。たとえばこの墨のようなものだ。誰も曲げようと思って磨る者はいないのに、手の力が自然に傾くために、このように曲がってしまう。今これを直そうとしても、簡単には直らない。あらゆる物事もその通りで、喜び・怒り・愛しみ・憎しみといった感情も、自然に一方へ傾くものである。傾けば曲がってしまう。よく心がけて、心は平らに正しく保つべきである。
解説
曲がって摩り減った一本の墨を教材に、尊徳が心の持ちようを説いた小さな名条です。誰も曲げようとして磨るわけではないのに、手の力が知らぬ間に傾くから墨は曲がる。しかも一度曲がれば容易には直らない――この身近な観察を、喜怒愛憎の感情がいつの間にか一方に偏っていく人の心へと重ねます。人を治め事を執る立場の者ほど、無自覚な偏りが積み重なって取り返しのつかない歪みを生む。だからこそ日頃から「心を正平に持つ」努力が要る、というのです。至誠と公平を尊ぶ報徳の精神が、身近な道具の一点から鮮やかに立ち上がります。感情の偏りに気づきにくい現代の私たちにも、日々の小さな自省の大切さを静かに教えてくれます。
この章句が説くこと
二宮翁夜話報徳至誠正平公平自省
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