二宮翁夜話 / 巻之五
翁曰、大学に、仁者は財を以て身を起す、といへるはよろし、不仁者は身を以て財を起す、といへるは如何、夫志ある者といへ共、仁心ある者といへども、親より譲られし財産なき者は、身を以て財を起すこそ道なれ、志あるも、財なきを如何せん、発句に「夕立や知らぬ人にももやひ傘」と云り、是仁心の芽立なり、身を以て財を起しながらも、此志あらば、不仁者とは云べからず、身を以て財を起すは貧者の道なり、財を以て身を起すは富者の道也、貧人身を以て財を起して富を得、猶財を以て財を起さば、其時こそ不仁者と云べけれ、善をなさゞれば、善人とは云べからず、悪を為さゞれば、悪人とは云べからず、されば不仁を為さゞれば、不仁者とは云べからず、何ぞ身を以て財を起す者を、一向に不仁者と云んや、故に予常に聖人は、大尽子なりと云なり、大尽子は袋中自銭ありと思へり、自銭ある袋決してあるべき理なし、此の如き咄は、皆大尽子の言なり、又人あれば土ありともあり、本来を云へば、土あれば人ありなる事明なり、然るを、人あれば土ありと云へる土は、肥良の耕土を指せるなり、烈公の詩に「土有て土なし常陸の土、人有て人なし水府の人」とあり、則此意なり。
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、大学に、仁者は財(ざい)を以て身を起(おこ)す、といへるはよろし、不仁者は身を以て財を起す、といへるは如何(いかん)、夫(それ)志ある者といへ共(ども)、仁心ある者といへども、親より譲(ゆず)られし財産(ざいさん)なき者は、身を以て財を起すこそ道なれ、志あるも、財(ざい)なきを如何せん、発句(ほっく)に「夕立や知らぬ人にももやひ傘」と云へり、是仁心の芽立(めだち)なり、身を以て財を起しながらも、此志あらば、不仁者とは云ふべからず、身を以て財を起すは貧者の道なり、財を以て身を起すは富者の道なり、貧人身を以て財を起して富を得、猶(なお)財を以て財を起さば、其時こそ不仁者と云ふべけれ、善をなさゞれば、善人とは云ふべからず、悪を為さゞれば、悪人とは云ふべからず、されば不仁を為さゞれば、不仁者とは云ふべからず、何ぞ身を以て財を起す者を、一向に不仁者と云はんや、故に予常に聖人は、大尽子(だいじんこ)なりと云ふなり、大尽子は袋中(たいちゅう)自(おのずか)ら銭ありと思へり、自ら銭ある袋(ふくろ)決してあるべき理なし、此の如き咄(はなし)は、皆大尽子の言なり、又人あれば土ありともあり、本来を云へば、土あれば人ありなる事明(あきら)かなり、然るを、人あれば土ありと云へる土は、肥良(ひりょう)の耕土を指せるなり、烈公の詩に「土有りて土なし常陸(ひたち)の土、人有りて人なし水府(すいふ)の人」とあり、則(すなわ)ち此意なり。
現代語訳
翁が言われた。『大学』に「仁者は財によって身を起こす」とあるのはよい。しかし「不仁者は身によって財を起こす」とあるのはどうであろうか。そもそも志のある者でも、仁の心のある者でも、親から譲られた財産のない者は、自分の身によって財を起こすことこそ正しい道である。志があっても財がないのをどうしようもない。俳句に「夕立や知らぬ人にも相合傘」とある。これは仁の心の芽生えである。自分の身によって財を起こしながらも、この志があるなら、不仁者とは言えない。自分の身によって財を起こすのは貧しい者の道であり、財によって身を起こすのは富む者の道である。貧しい者が自分の身によって財を起こして富を得、さらに財によって財を起こすなら、その時こそ不仁者と言うべきである。善をしなければ善人とは言えず、悪をしなければ悪人とは言えない。とすれば、不仁をしなければ不仁者とは言えない。どうして自分の身によって財を起こす者を、頭から不仁者と言えようか。だから私はいつも「聖人は大金持ちのぼんぼんだ」と言うのである。大金持ちのぼんぼんは、袋の中に自然に銭があると思っている。自然に銭のある袋など決してあるはずがない。こうした話はみな金持ちのぼんぼんの言い分だ。また「人があれば土がある」ともいう。本来を言えば「土があれば人がある」のは明らかである。それなのに「人があれば土がある」というときの土は、肥えた良い耕地を指しているのだ。烈公(徳川斉昭)の詩に「土はあっても(役立つ)土のない常陸の土、人はあっても(役立つ)人のない水戸の人」とある。まさにこの意味である。