二宮翁夜話 / 巻之五
翁曰、窮の尤急なるは、飢饉凶歳より甚きはなし、一日も緩すべからず、是を緩うすれば、人命に関し容易ならざるの変を生ず、変とは何ぞ、暴動なり、古語に、小人窮すれば乱す、とある通り、空く餓死せんよりは、縦令刑せらるゝも、暴を以て一時飲食を十分にし、快楽を極て、死に付んと、富家を打毀し、町村に火を放ちなど、云べからざる悪事を引起す事、古より然り、恐れざるべけんや、此暴徒乱民は、必其土地の大家に当る事、大風の大木に当るが如し、富有者たるもの、其防ぎ無くばあるべからず。
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、窮(きゅう)の尤(もっと)も急なるは、飢饉(ききん)凶歳より甚(はなはだ)しきはなし、一日も緩(ゆる)うすべからず、是(これ)を緩うすれば、人命に関(かん)し容易(ようい)ならざるの変を生ず、変とは何ぞ、暴動(ぼうどう)なり、古語に、小人(しょうじん)窮すれば乱(みだ)す、とある通り、空(むな)しく餓死(がし)せんよりは、縦令(たとい)刑せらるゝも、暴(ぼう)を以て一時飲食を十分にし、快楽(かいらく)を極(きわ)めて、死に付かんと、富家を打毀(うちこわ)し、町村に火を放(はな)ちなど、云ふべからざる悪事を引起す事、古(いにしえ)より然り、恐(おそ)れざるべけんや、此の暴徒(ぼうと)乱民(らんみん)は、必ず其の土地の大家(たいか)に当(あた)る事、大風の大木に当るが如し、富有者たるもの、其の防(ふせ)ぎ無くばあるべからず。
現代語訳
翁が言われた。困窮のうち最も急を要するものは、飢饉凶年ほど甚だしいものはない。一日たりとも対応を緩めてはならない。これを緩めれば、人命に関わる容易ならぬ変事が起こる。変事とは何か。暴動である。古語に「小人は窮すれば乱れる」とある通り、むなしく餓死するよりは、たとえ刑罰を受けようとも、暴力によって一時でも飲食を十分にし、快楽を極めて死のうと、富豪の家を打ち壊し、町や村に火を放つなど、口にできぬ悪事を引き起こすことは、昔からあることだ。恐れずにいられようか。この暴徒や乱民は、必ずその土地の大家(有力者)を襲うもので、それは大風が大木を直撃するようなものである。富裕な者は、その備えがなくてはならない。
解説
飢饉が人命だけでなく社会秩序をも脅かすことを説く一条です。追い詰められた民は「餓死するより暴れて死ぬ」と暴動に走り、その矛先は必ず土地の富裕者に向かう――大風が大木を直撃するように、と尊徳は喝破します。だからこそ富める者は備えを怠ってはならないと諭すのですが、その根底には、富とは独り占めするものではなく、いざという時に地域へ譲り施す「推譲」によってこそ守られる、という報徳の思想があります。自分の富を守ることと社会全体を安んじることは切り離せない、という洞察は、格差や分断が問われる現代にも鋭く響きます。
この章句が説くこと
二宮翁夜話報徳推譲飢饉暴動富有者の責務
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論語 学而第一有子曰、「其為人也、孝弟而好犯上者鮮矣。不好犯上而好作亂者、未之有也。君子務本、本立而道生。孝弟也者、其為仁之本與。」
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二宮翁夜話・巻之一翁曰く、夫れ世界は旋転してやまず、寒往けば暑来り、暑往けば寒来り、夜明くれば昼となり、昼になれば夜となり、又万物生ずれば滅し、滅すれば生ず。譬へば銭を遣れば品が来り、品を遣れば銭が来るに同じ。寝ても醒めても、居ても歩行ても、昨日は今日になり今日は明日になる。田畑も海山も皆その通り。爰にて薪をたきへらすほどは、山林にて生木し、爰で喰へらす丈の穀物は、田畑にて生育す。野菜にても魚類にても、世の中にて減るほどは、田畑河海山林にて生育し、生れたる子は、時々刻々年がより、築たる堤は時々刻々に崩れ、掘たる堀は日々夜々に埋り、葺たる屋根は日々夜々に腐る。是即ち天理の常なり。然るに人道は、是と異なり。如何となれば、風雨定めなく、寒暑往来する此世界に、毛羽なく鱗介なく、裸体にて生れ出で、家がなければ雨露が凌がれず、衣服がなければ寒暑が凌がれず。爰に於て、人道と云ふ物を立て、米を善とし、莠を悪とし、家を造るを善とし、破るを悪とす。皆人の為に立てたる道なり。依て人道と云ふ。天理より見る時は善悪はなし。其証には、天理に任する時は、皆荒地となりて、開闢のむかしに帰るなり。如何となれば、是則ち天理自然の道なれば也。夫れ天に善悪なし、故に稲と莠とを分たず、種ある者は皆生育せしめ、生気ある者は皆発生せしむ。人道はその天理に順ふといへども、其内に各区別をなし、稗莠を悪とし、米麦を善とするが如き、皆人身に便利なるを善とし、不便なるを悪となす。爰に到ては天理と異なり。如何となれば、人道は人の立つる処なれば也。人道は譬ば料理物の如く、三倍酢の如く、歴代の聖主賢臣料理し塩梅して拵らへたる物なり。されば、ともすれば破れんとす。故に政を立て、教を立て、刑法を定め、礼法を制し、やかましくうるさく、世話をやきて、漸く人道は立つなり。然るを天理自然の道と思ふは、大なる誤なり。能く思ふべし。