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二宮翁夜話 / 巻之五

翁又曰、右の方法は只窮救の良法のみにあらず、勧業の良法なり、此法を施す時は、一時の窮を救ふのみならず、遊惰の者をして、自然勉強に趣しめ、思はず知らず職業を習ひ覚えしめ、習性と成て弱者も強者となり、愚者も職業に馴れ、幼者も繩を索ふ事を覚え、草鞋を作る事を覚へ、其外種々の稼を覚えて、遊手徒食の者なくなりて、人々遊手で居るを恥ぢ、徒食するを恥ぢて、各々精業に趣く様に成行ものなり、夫恵んで費えざるは、窮を救ふの良法たり、然といへども右の方法は、是に倍したる良法と云べし、飢饉凶歳にあらずといへども、救窮に志ある者、深く注意せずばあるべからず、世間救窮に志ある者、猥りに金穀を施与するは、甚宜しからず、何となれば、人民を怠惰に導くが故なり、是恵んで費ゆるなり、恵で費えざる様に、注意して施行し人民をして、憤発勉強に趣かしむる様にするを、要するなり。

書き下し

翁(おきな)又(また)曰(いわ)く、右の方法は只(ただ)窮救(きゅうきゅう)の良法のみにあらず、勧業(かんぎょう)の良法なり、此(こ)の法を施(ほどこ)す時は、一時の窮を救ふのみならず、遊惰(ゆうだ)の者をして、自然(しぜん)勉強(べんきょう)に趣(おもむ)かしめ、思はず知らず職業を習ひ覚えしめ、習性(しゅうせい)と成りて弱者も強者となり、愚者も職業に馴(な)れ、幼者も繩(なわ)を索(な)ふ事を覚え、草鞋(わらじ)を作る事を覚へ、其の外種々の稼(かせぎ)を覚えて、遊手徒食(ゆうしゅとしょく)の者なくなりて、人々遊手(ゆうしゅ)で居るを恥ぢ、徒食(としょく)するを恥ぢて、各々(おのおの)精業(せいぎょう)に趣く様に成行(なりゆ)くものなり、夫(それ)恵(めぐ)んで費(つい)えざるは、窮を救ふの良法たり、然(しか)といへども右の方法は、是に倍(ばい)したる良法と云ふべし、飢饉凶歳(ききんきょうさい)にあらずといへども、救窮に志ある者、深く注意せずばあるべからず、世間救窮に志ある者、猥(みだ)りに金穀(きんこく)を施与(せよ)するは、甚(はなは)だ宜(よろ)しからず、何となれば、人民を怠惰(たいだ)に導くが故なり、是恵んで費(つい)ゆるなり、恵んで費えざる様に、注意して施行し人民をして、憤発(ふんぱつ)勉強に趣かしむる様にするを、要するなり。

現代語訳

翁がまた言われた。先の方法は、ただ困窮を救う良法であるだけでなく、産業を勧める良法でもある。この法を施すと、一時の困窮を救うだけでなく、怠け遊ぶ者を自然に勤勉へと向かわせ、知らず知らずのうちに職業を習い覚えさせる。それが習い性となって、弱い者も強くなり、愚かな者も仕事に馴れ、幼い者も縄をなうことを覚え、草鞋を作ることを覚え、そのほか様々な稼ぎを覚えて、遊び暮らす者がいなくなる。人々は遊んでいるのを恥じ、働かず食べるのを恥じて、それぞれ本業に励むようになっていくものだ。そもそも恵んで費えない(無駄にならない)というのは、困窮を救う良法である。とはいえ先の方法は、それに倍する良法というべきだ。飢饉や凶作でなくても、困窮を救おうと志す者は、深く注意しなければならない。世間で困窮救済に志す者が、むやみに金や穀物を施し与えるのは、甚だよくない。なぜなら、人民を怠惰に導くからだ。これは恵んで費える(無駄になる)ことである。恵んで費えないように注意して施し、人民を奮い立たせて勤勉に向かわせるようにすることが肝要なのだ。

解説

一連の飢饉救済論の締めくくりで、尊徳の支援哲学が凝縮された一条です。働かせて賃を払う方法は、単なる救済にとどまらず産業を興す良法でもある、と説きます。人は仕事を覚えれば習い性となり、弱者も強くなり、やがて遊んで暮らすことを恥じて自ら働くようになる――そこに尊徳は人間の再生を見ます。だからむやみに金や穀物を施すのは、かえって人を怠惰に導く「恵んで費える」悪法。目指すべきは「恵んで費えざる」道、すなわち人を奮い立たせ勤勉へ向かわせる支援です。勤労を通した自立こそ真の救済だという報徳の核心は、依存を生む施しの是非が問われる現代の福祉・援助のあり方にも、鋭く重い示唆を投げかけています。

この章句が説くこと

二宮翁夜話報徳勧業勤労自立推譲

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