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二宮翁夜話 / 巻之四

或人、一飯に米一勺づゝを減ずれば、一日に三勺、一月に九合、一年に一斗余、百人にて十一石、万人にて百十石なり、此計算を人民に諭して富国の基を立んと云り、翁曰、此教諭、凶歳の時には宜しといへ共、平年此の如き事は、云ふ事勿れ、何となれば凶歳には食物を殖す可らず、平年には一反に一斗づゝ取増せば、一町に一石、十町に十石、百町に百石、万町に万石なり、富国の道は、農を勧めて米穀を取増すにあり、何ぞ減食の事を云んや、夫下等人民は平日の食十分ならざるが故に、十分に食ひたしと思ふこそ常の念慮なれ、故に飯の盛方の少きすら快からず思ふ物なり、さるに一飯に一勺づゝ少く喰へなどゝ云事は、聞も忌々しく思ふなるべし、仏家の施餓鬼供養に、ホドナンパンナムサマダと繰返し繰返し唱ふるは、十分に食ひ玉へ沢山に食ひ玉へ、と云事なりと聞けり、されば施餓鬼の功徳は、十分に食へと云ふにあり、下等の人民を諭さんには、十分に喰て十分に働け、沢山喰て骨限り稼げと諭し、土地を開き米穀を取増し、物産の繁殖する事を勤むべし、夫労力を増せば土地開け物産繁殖す、物産繁殖すれば商も工も随て繁栄す、是国を富すの本意なり、人或は云ん、土地を開くも開くべき地なしと、予が目を以て見る時は、何国も皆半開なり、人は耕作仕付あれば皆田畑とすれ共、湿地乾地、不平の地麁悪の地、皆未田畑と云可らず、全国を平均して、今三回も開発なさゞれば、真の田畑とは云べからず、今日の田畑は只耕作差支なく出来るのみなり。

書き下し

或人(あるひと)、一飯に米一勺(しゃく)づゝを減(げん)ずれば、一日に三勺、一月に九合、一年に一斗余(あまり)、百人にて十一石、万人にて百十石なり、此計算を人民に諭(さと)して富国の基(もとい)を立んと云(いえ)り、翁(おきな)曰(いわ)く、此教諭、凶歳(きょうさい)の時には宜(よろ)しといへ共、平年此の如き事は、云ふ事勿(なか)れ、何となれば凶歳には食物を殖(ふや)す可らず、平年には一反に一斗づゝ取増(とりま)せば、一町に一石、十町に十石、百町に百石、万町に万石なり、富国の道は、農を勧(すす)めて米穀(べいこく)を取増すにあり、何ぞ減食の事を云んや、夫(それ)下等人民は平日の食十分ならざるが故に、十分に食(く)ひたしと思ふこそ常の念慮(ねんりょ)なれ、故に飯の盛(もり)方の少きすら快(こころよ)からず思ふ物なり、さるに一飯に一勺づゝ少く喰へなどゝ云事は、聞も忌(いま)々しく思ふなるべし、仏家の施餓鬼供養(せがきくよう)に、ホドナンパンナムサマダと繰返(くりかえ)し繰返し唱(とな)ふるは、十分に食ひ玉へ沢山に食ひ玉へ、と云事なりと聞けり、されば施餓鬼(せがき)の功徳は、十分に食へと云ふにあり、下等の人民を諭(さと)さんには、十分に喰て十分に働(はたら)け、沢山喰て骨限(ほねかぎ)り稼(かせ)げと諭(さと)し、土地を開き米穀を取増し、物産の繁殖(はんしょく)する事を勤(つと)むべし、夫(それ)労力を増(ま)せば土地開け物産繁殖す、物産繁殖すれば商も工も随(したがい)て繁栄す、是(これ)国を富すの本意なり、人或は云ん、土地を開くも開くべき地なしと、予が目を以て見る時は、何国も皆半開なり、人は耕作仕付あれば皆田畑とすれ共、湿(しつ)地乾(かん)地、不平の地麁悪(そあく)の地、皆未(いま)だ田畑と云ふ可らず、全国を平均(へいきん)して、今三回も開発なさゞれば、真の田畑とは云べからず、今日の田畑は只耕作差支なく出来るのみなり。

現代語訳

ある人が、一回の食事で米を一勺ずつ減らせば、一日で三勺、一月で九合、一年で一斗あまり、百人で十一石、一万人で百十石になる。この計算を人々に説いて富国の基礎を立てようと言った。翁が言われた。この教えは凶作の時にはよいが、平年にこのようなことは言ってはならない。なぜなら凶作の時には食物を増やせないが、平年なら一反につき一斗ずつ収穫を増やせば、一町で一石、十町で十石、百町で百石、一万町で一万石になる。富国の道は農業を勧めて米穀の生産を増やすことにあり、どうして減食のことなど言おうか。そもそも下層の民は日ごろ食が十分でないから、腹いっぱい食べたいと思うのが常の願いだ。だから飯の盛りが少ないことさえ不快に思うものだ。それなのに一食一勺ずつ減らして食えなどと言うのは、聞くのも忌々しく思うだろう。仏教の施餓鬼供養で、呪文を繰り返し繰り返し唱えるのは、「十分に食べなさい、たくさん食べなさい」という意味だと聞いた。つまり施餓鬼の功徳は「十分に食え」というところにある。下層の民を導くには、「十分に食べて十分に働け、たくさん食べて力の限り稼げ」と諭し、土地を開墾して米穀の生産を増やし、物産が豊かになるよう努めるべきだ。労力を増やせば土地は開け物産は増える。物産が増えれば商業も工業もそれにつれて栄える。これが国を富ませる本来の意味だ。ある人は「開墾しようにも開ける土地がない」と言うだろう。だが私の目で見れば、どの国もみな半分しか開けていない。人は耕して作付けすればみな田畑とするが、湿地・乾地、平らでない土地、痩せた土地は、まだ田畑とは言えない。全国をならして、今から三回も開発しなければ、本当の田畑とは言えない。今の田畑は、ただ耕作に差し支えなくできるというだけのものだ。

解説

節約で富国をと説く人に対し、尊徳は「凶作ならともかく平年に減食を勧めてはならない」と諭します。ここに報徳思想の積極性が表れています。富の本道は支出を切り詰めることではなく、勤労によって生産そのものを増やすこと。「十分に食べて十分に働け、たくさん食べて力の限り稼げ」という言葉は、労働の源である活力を惜しむなという励ましです。しかも尊徳は「どの国も半開に過ぎず、あと三回は開発できる」と土地の可能性を見抜きます。縮小均衡ではなく、勤労による拡大と開発で全体を豊かにする――倹約を土台としつつ、それだけに縮こまらない前向きな経済観です。付加価値を生む働きこそ繁栄の本と説く姿勢は、現代の成長論にも通じます。

この章句が説くこと

二宮翁夜話報徳勤労富国開墾増産

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