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二宮翁夜話 / 巻之四

翁曰、聖人中を尊ぶ、而て其中と云ものは、物毎にして異なり、或は其物の中に中あるあり、物指の類是なり、或は片寄て中あるあり、権衡の垂針の平是なり、熱らず冷ならざるは温湯の中、甘からず辛からざるは味の中、損なく徳なきは取り遣りの中、盗人は盗むを誉め、世人は盗むを咎むる如きは、共に中にあらず、盗まず盗まれざるを中と云べし、此理明白なり、而て忠孝は、他と我と相対して、而て生ずる道なり、親なければ孝を為さんと欲するとも為べからず、君なければ忠をなさんと欲するとも、為す事能はず、故に片よらざれば、至孝至忠とは言難し、君の方に片より極りて至忠なり、親の方に偏倚極りて至孝なり、片よるは尽すを云なり、大舜の瞽瞍に於る、楠公の南朝に於る、実に偏倚の極なり、至れり尽せりと云べし、此の如くなれば、鳥黐にて塵を取るが如く、天下の父母たる者君たる者に合せて合ざる事なし、忠孝の道は爰に至て中庸なり、若忠孝をして、中分中位にせば、何ぞ忠と云ん、何ぞ孝と云ん、君と親との為には、百石は百石、五十石は五十石、尽さゞれば至れりと云べからず、若百石は五十石にして、中なりと云が如きは、過の甚しきものなり、何となれば、君臣にて一円なるが故なり、親子にて一円なるが故なり、夫君と云時は必臣あり、親と云時は必子あり、子なければ親と云べからず、君なければ臣と云べからず、故に君も半なり、臣も半なり、親も半なり、子も半なり、故に偏倚の極を以て、是を至れりと云、左図を見て悟るべし。

書き下し

翁(おきな)曰(いわ)く、聖人中(ちゅう)を尊ぶ、而(しか)して其(そ)の中と云ふものは、物毎(ものごと)にして異(こと)なり、或(ある)ひは其の物の中に中あるあり、物指(ものさし)の類是(これ)なり、或ひは片寄(かたよ)りて中あるあり、権衡(けんこう)の垂針(すいしん)の平(へい)是なり、熱(あつ)からず冷(ひや)やかならざるは温湯(おんとう)の中、甘(あま)からず辛(から)からざるは味の中、損なく徳なきは取り遣(や)りの中、盗人(ぬすびと)は盗むを誉(ほ)め、世人(せじん)は盗むを咎(とが)むる如きは、共に中にあらず、盗まず盗まれざるを中と云ふべし、此(こ)の理明白なり、而して忠孝は、他と我と相対(あいたい)して、而して生ずる道なり、親なければ孝を為さんと欲するとも為すべからず、君なければ忠を為さんと欲するとも、為す事能(あた)はず、故に片(かた)よらざれば、至孝至忠とは言(い)ひ難(がた)し、君の方に片より極(きわ)まりて至忠なり、親の方に偏倚(へんい)極まりて至孝なり、片よるは尽(つく)すを云ふなり、大舜(たいしゅん)の瞽瞍(こそう)に於(お)ける、楠公(なんこう)の南朝に於ける、実に偏倚の極なり、至れり尽せりと云ふべし、此の如くなれば、鳥黐(とりもち)にて塵(ちり)を取るが如く、天下の父母たる者君たる者に合せて合はざる事なし、忠孝の道は爰(ここ)に至りて中庸なり、若(も)し忠孝をして、中分中位(ちゅうぶんちゅうい)にせば、何ぞ忠と云はん、何ぞ孝と云はん、君と親との為には、百石は百石、五十石は五十石、尽さゞれば至れりと云ふべからず、若し百石は五十石にして、中なりと云ふが如きは、過(あやま)ちの甚(はなは)だしきものなり、何となれば、君臣にて一円(いちえん)なるが故なり、親子にて一円なるが故なり、夫(そ)れ君と云ふ時は必ず臣あり、親と云ふ時は必ず子あり、子なければ親と云ふべからず、君なければ臣と云ふべからず、故に君も半(はん)なり、臣も半なり、親も半なり、子も半なり、故に偏倚の極を以て、是を至れりと云ふ、左図(さず)を見て悟(さと)るべし。

現代語訳

翁が言われた。聖人は中庸を尊ぶ。しかしその「中」というものは、物ごとによって異なる。あるものは、その物の真ん中に中がある。物差しの類がそれだ。あるものは、片寄ったところに中がある。秤の錘の針が水平で釣り合うのがそれだ。熱くも冷たくもないのがぬるま湯の中、甘くも辛くもないのが味の中、損も得もないのが取引の中。盗人は盗むのをほめ、世間の人は盗むのをとがめる――これらはどちらも中ではない。盗まず盗まれずが中というべきだ。この理は明白である。さて忠孝は、相手と自分とが向き合って初めて生じる道だ。親がなければ孝を尽くそうとしてもできず、君がなければ忠を尽くそうとしてもできない。だから片寄らなければ至孝・至忠とはいえない。君の方へ片寄りきってこそ至忠、親の方へ片寄りきってこそ至孝である。片寄るとは尽くすことをいう。大舜が父の瞽瞍に対したこと、楠木正成が南朝に尽くしたことは、実に片寄りの極みだ。至れり尽くせりというべきである。こうであれば、鳥もちで塵を取るように、天下の父たる者・君たる者すべてにかなって、かなわないことはない。忠孝の道はここに至ってこそ中庸なのだ。もし忠孝を中くらいの程度にとどめたら、どうして忠といえよう、どうして孝といえよう。君と親のためには、百石は百石、五十石は五十石を尽くさなければ至れりとはいえない。もし百石を五十石にして、それが中だなどというのは、甚だしい過ちである。なぜなら、君臣で一つの円を成し、親子で一つの円を成すからだ。そもそも君といえば必ず臣があり、親といえば必ず子がある。子がなければ親といえず、君がなければ臣といえない。だから君も半分、臣も半分、親も半分、子も半分である。だから片寄りの極みをもって至れりというのだ。図を見て悟るがよい。

解説

「中庸」を独自に読み替えた、思想的に濃い一条です。中庸とは常に真ん中ではなく、物差しのように中央にある中もあれば、秤の釣り合いのように片寄った点にある中もある、と尊徳は説きます。忠や孝はまさに後者で、君や親に対して尽くしきってこそ「至忠」「至孝」の中を得る。百石なら百石を尽くさねばならず、半分にとどめて中と称するのは大きな誤りだ、というのです。その根拠が「君臣・親子はそれぞれで一つの円を成す」という関係観で、君も臣も互いに半分ずつ、双方が全力を尽くして初めて全体が完結すると考えます。至誠を尽くしきる報徳の精神を、中庸論として理論化した一条であり、責任を半端にせず全うすることの意味を現代の私たちにも問いかけます。

この章句が説くこと

二宮翁夜話報徳中庸忠孝至誠一円

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