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二宮翁夜話 / 巻之四

某の寺に、廿四孝図の屏風あり、翁曰、夫聖門は中庸を尊ぶ、然るに此廿四孝と云者皆中庸ならず、只王裒、朱寿昌等、数名のみ奇もなく異もなし、其他は奇なり異なり、虎の前に号しかば、害を免るゝに至ては我之を知らず、論語孝を説く処と、懸隔を覚う、夫孝は親の心を以て心とし、親の心を安ずるにあり、子たる者平常の身持心掛慥ならば、縦令遠国に奉公し、父母を問ふ事なしといへ共、某の藩にて褒賞を受けし者ありと聞時は、其父母我子ならんと悦び、又罪科を受し者ありと聞時は、必我子にあらじと苦慮せざる様なれば、孝と云べし、又同く罪科に陥りし者ありと聞時は、我子ならんかと苦慮し、褒賞の者ありと聞時は、我子にあらじと、悦ばぬ様ならんには、日に月に行通ひて、安否を問ふ共、不孝とす、古語に、親に事る者は、上に居て驕らず、下に居て乱れず、醜に在て争はずと云ひ、又違ふ事なしとも、又其病を是患ふとも云り、親子の情見るべし、世間親たる者の深情は、子の為に無病長寿、立身出世を願ふの外、決して余念なき物なり、されば子たる者は、其親の心を以て心として親を安ずるこそ、至孝なるべけれ、上に居て驕らざるも、下と成て乱れざるも、常の事なれど醜に在て争はずと云へるに、心を付べし、醜俗に交る時は、如何に堪忍するとも、忍び難き事多かるべきに、此場に於て争はぬは、実に至孝と云ふべきなり。

書き下し

某(それがし)の寺に、廿四孝図(にじゅうしこうず)の屏風(びょうぶ)あり、翁(おきな)曰(いわ)く、夫(そ)れ聖門(せいもん)は中庸(ちゅうよう)を尊ぶ、然(しか)るに此(こ)の廿四孝と云ふ者皆中庸ならず、只(ただ)王裒(おうほう)、朱寿昌(しゅじゅしょう)等、数名のみ奇もなく異もなし、其(そ)の他は奇なり異なり、虎の前に号(な)きしかば、害を免(まぬか)るゝに至りては我之(これ)を知らず、論語孝を説く処と、懸隔(けんかく)を覚(おぼ)ゆ、夫れ孝は親の心を以て心とし、親の心を安(やす)んずるにあり、子たる者平常の身持(みもち)心掛(こころがけ)慥(たしか)ならば、縦令(たとい)遠国(えんごく)に奉公し、父母を問ふ事なしといへ共(ども)、某の藩にて褒賞(ほうしょう)を受けし者ありと聞く時は、其の父母我子ならんと悦(よろこ)び、又罪科(つみとが)を受けし者ありと聞く時は、必(かなら)ず我子にあらじと苦慮(くりょ)せざる様なれば、孝と云ふべし、又同じく罪科に陥(おちい)りし者ありと聞く時は、我子ならんかと苦慮し、褒賞の者ありと聞く時は、我子にあらじと、悦ばぬ様ならんには、日に月に行通(ゆきかよ)ひて、安否を問ふ共、不孝とす、古語に、親に事(つか)ふる者は、上に居て驕(おご)らず、下に居て乱(みだ)れず、醜(しゅう)に在(あ)りて争(あらそ)はずと云ひ、又違(たが)ふ事なしとも、又其の病を是(こ)れ患(うれ)ふとも云へり、親子の情見るべし、世間親たる者の深情(しんじょう)は、子の為に無病長寿、立身出世を願ふの外、決して余念なき物なり、されば子たる者は、其の親の心を以て心として親を安んずるこそ、至孝(しこう)なるべけれ、上に居て驕らざるも、下と成りて乱れざるも、常の事なれど醜に在りて争はずと云へるに、心を付(つ)くべし、醜俗(しゅうぞく)に交る時は、如何(いか)に堪忍(かんにん)するとも、忍(しの)び難き事多かるべきに、此の場に於て争はぬは、実に至孝と云ふべきなり。

現代語訳

とある寺に二十四孝を描いた屏風があった。翁が言われた。そもそも儒学の門は中庸を尊ぶ。ところがこの二十四孝という者たちは、みな中庸ではない。ただ王裒や朱寿昌など数名だけが奇も異もない。その他は奇であり異である。虎の前で泣いたら害を免れたなどというのは、私には理解できない。論語が孝を説くところとは大きな隔たりを覚える。そもそも孝とは、親の心を自分の心とし、親の心を安んじることにある。子たる者の平素の身持ちと心掛けが確かなら、たとえ遠国に奉公して父母に便りをしなくても、どこかの藩で褒賞を受けた者がいると聞けば、その親は我が子ではないかと喜び、罪を犯した者がいると聞けば、必ず我が子ではあるまいと心配しないでいられる。これを孝というべきだ。逆に、罪に陥った者がいると聞いて我が子かと心配し、褒賞の者がいると聞いて我が子ではあるまいと喜べないようでは、日々足しげく通って安否を問うても不孝である。古語に、親に仕える者は、上の位にいて驕らず、下にいて乱れず、みにくい人々の中にあっても争わない、といい、また親の意に違わない、その病を心配する、ともいう。親子の情がここに見える。世間の親の深い情は、子の無病長寿と立身出世を願うほかに余念がないものだ。だから子たる者は、その親の心を自分の心として親を安んじることこそ至孝である。上にいて驕らず、下にいて乱れないのは普通のことだが、みにくい人々の中で争わないという点に心をつけるべきだ。俗悪な連中と交わるときは、どんなに我慢しても堪え難いことが多いはずで、その場で争わないのは、実に至孝というべきである。

解説

「二十四孝」という有名な孝行説話を、尊徳が中庸の立場から批判的に読み解いた一条です。虎の前で泣いたら助かったといった奇跡譚は真の孝ではない、と退け、孝の本質は「親の心を自分の心とし、親を安心させること」にあると説きます。日頃の身の処し方が確かなら、遠く離れていても親は安心できる――これが真の孝だというのです。さらに、俗悪な人々の中でも争わず身を保つことを至孝とし、日常の実践に孝を引き寄せます。派手な美談ではなく、自らの生き方で親を安心させることこそ孝だという教えは、至誠を尊ぶ報徳思想らしく、現代の親子関係にも通じる普遍的な示唆を含んでいます。

この章句が説くこと

二宮翁夜話報徳二十四孝中庸至孝

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