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二宮翁夜話 / 巻之一

翁曰く、天理と人道との差別を、能く弁別する人少し。夫れ人身あれば欲あるは則ち天理なり。田畑へ草の生ずるに同じ。堤は崩れ堀は埋り橋は朽る、是則ち天理なり。然れば、人道は私欲を制するを道とし、田畑の草をさるを道とし、堤は築立、堀はさらひ、橋は掛替るを以て道とす。此の如く、天理と人道とは格別の物なるが故に、天理は万古変ぜず、人道は一日怠れば忽ちに廃す。されば人道は勤るを以て尊しとし、自然に任ずるを尊ばず。夫れ人道の勤むべきは、己に克の教なり。己は私欲なり。私欲は田畑に譬れば草なり。克つとは、此田畑に生ずる草を取捨るを云ふ。己に克つは、我心の田畑に生ずる草をけづり捨、とり捨て、我心の米麦を、繁茂さする勤なり。是を人道といふ。論語に、己に克て礼に復る、とあるは此勤なり。

書き下し

翁(おきな)曰(いわ)く、天理と人道との差別(しゃべつ)を、能(よ)く弁別する人少し。夫(そ)れ人身(じんしん)あれば欲あるは則(すなわ)ち天理なり。田畑へ草の生ずるに同じ。堤は崩れ堀は埋(うづ)まり橋は朽(く)る、是(これ)則ち天理なり。然れば、人道は私欲を制するを道とし、田畑の草をさるを道とし、堤は築立(つきた)て、堀はさらひ、橋は掛替(かけか)ふるを以て道とす。此(か)くの如く、天理と人道とは格別の物なるが故に、天理は万古(ばんこ)変ぜず、人道は一日怠れば忽(たちま)ちに廃(はい)す。されば人道は勤(つと)むるを以て尊しとし、自然に任ずるを尊ばず。夫れ人道の勤むべきは、己(おのれ)に克(か)つの教なり。己は私欲なり。私欲は田畑に譬(たと)ふれば草なり。克つとは、此田畑に生ずる草を取捨(とりす)つるを云ふ。己に克つは、我心の田畑に生ずる草をけづり捨て、とり捨てて、我心の米麦を繁茂さする勤なり。是を人道といふ。論語に、己に克ちて礼に復(かえ)る、とあるは此勤なり。

現代語訳

翁が言われた。天理と人道の区別をよく見分けられる人は少ない。そもそも身体があれば欲が生じるのは天理である。田畑に草が生えるのと同じだ。堤は崩れ、堀は埋まり、橋は朽ちる――これも天理である。とすれば、人道とは私欲を制することを道とし、田畑の草を取ることを道とし、堤を築き直し、堀をさらい、橋を架け替えることを道とする。このように天理と人道はまったく別のものだから、天理はとこしえに変わらないが、人道は一日怠ればたちまち廃れてしまう。だから人道は努めることを尊び、自然に任せることを尊ばない。そもそも人道で努めるべきは「己に克つ」という教えである。己とは私欲のことだ。私欲を田畑にたとえれば草である。克つとは、この田畑に生える草を取り捨てることをいう。己に克つとは、自分の心の田畑に生える草を削り捨て、取り捨てて、心の米麦を茂らせる努めのことだ。これを人道という。論語に「己に克ちて礼に復る(克己復礼)」とあるのは、この努めのことである。

解説

報徳思想の核心「克己(己に克つ)」を、田畑の草取りにたとえて説く一条です。身体があれば欲が生じるのも、堤が崩れ橋が朽ちるのも天理であり、それ自体に善悪はありません。人道とは、その私欲を制し、崩れた堤を築き直し草を取り除くという不断の営みだと尊徳は言います。天理は放っておいても変わりませんが、人道は一日怠ればたちまち廃れる。だから「勤(つとめ)」こそが尊いのです。心を田畑にたとえ、私欲という草を削り取って米麦を茂らせるのが克己だとする比喩はきわめて具体的で、尊徳は最後にこれを論語の「克己復礼」に重ねます。抽象的な修養論を農の営みに引きつけて語るところに、実践の人・尊徳らしさがよく表れています。日々の小さな自己管理の積み重ねの大切さを教える一条です。

この章句が説くこと

二宮翁夜話報徳克己克己復礼私欲人道

この一句を、あなたの毎日に。

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