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二宮翁夜話 / 巻之二

或問、老子に、道の道とすべきは常道にあらず云々、とあるは如何なる意ぞ、翁曰、老子の常と云へるは、天然自然万古不易の物をさして云へる也、聖人の道は、人道を元とす、夫人道は自然に基くといへ共、自然とは異る物なり、如何となれば、人は米麦を食とす、米麦自然にあらず、田畑に作らざればなき物なり、其田畑と云物、又自然にあらず、人の開拓に依て出来たる物なり、其田を開拓するや、堤を築き川を堰ぎ、溝を掘り水を上げ畦を立て、初て水田成る、元自然に基くといへ共、自然にあらずして、人作なること明かなり、惣て人道は斯の如き物なり、故に法律を立て、規則を定め、礼楽と云刑政と云、格と云式と云が如き、煩はしき道具を並べ立て、国家の安寧は漸く成る物なり、是米を喰んが為に、堤を築き堰を張り、溝を掘り畦を立てゝ、田を開くに同じ、是を聖人の道と尊むは、米を食んと欲する米喰仲間の人の事なり、老子是を見て、道の道とすべきは常の道にあらず、と云へるは、川の川とすべきは常の川にあらずと云に同じ、夫堤を築き堰を張り、水門を立てゝ引たる川は、人作の川にして、自然の常の川にあらぬ故に、大雨の時は、皆破るゝ川なりと、天然自然の理を云へるなり、理は理なりといへ共、人道とは大に異なり、人道は、此川は堤を築き、堰を張て引たる川なれば、年々歳々普請手入をして、大洪水ありとも、破損のなき様にと力を尽し、若流失したる時は、速に再興して元の如く、早く修理せよと云を人道とす、元築たる堤なれば崩るゝ筈、開きたる田なれば荒るゝ筈といふは、言ずとも知れたる事なり、彼は自然を道とすれば、夫を悪しと云にはあらねど、人道には大害あり、到底老子の道は、人は生れたる物なり、死するは当り前の事なり、是を歎くは愚なり、と云へるが如し、人道は夫と異なり、他人の死を聞ても、扨気の毒の事なりと歎くを道とす、況や親子兄弟親戚に於るをや、是等の理を以て押して知べきなり

書き下し

或(ある)ひと問ふ、老子に、道の道とすべきは常道(じょうどう)にあらず云々、とあるは如何なる意ぞ、翁(おきな)曰(いわ)く、老子の常と云へるは、天然自然万古不易(ばんこふえき)の物をさして云へる也、聖人の道は、人道を元とす、夫(それ)人道は自然に基(もとづ)くといへ共、自然とは異(こと)なる物なり、如何となれば、人は米麦を食とす、米麦自然にあらず、田畑に作らざればなき物なり、其田畑と云物、又自然にあらず、人の開拓に依て出来たる物なり、其田を開拓するや、堤(つつみ)を築(きず)き川を堰(せ)ぎ、溝(みぞ)を掘り水を上げ畦(あぜ)を立て、初て水田成る、元自然に基くといへ共、自然にあらずして、人作なること明かなり、惣(すべ)て人道は斯の如き物なり、故に法律を立て、規則を定め、礼楽(れいがく)と云刑政(けいせい)と云、格(かく)と云式(しき)と云が如き、煩(わずら)はしき道具を並べ立て、国家の安寧(あんねい)は漸(ようや)く成る物なり、是米を喰(くら)んが為に、堤を築き堰(せき)を張り、溝を掘り畦を立てゝ、田を開くに同じ、是を聖人の道と尊(たっと)むは、米を食んと欲する米喰仲間の人の事なり、老子是を見て、道の道とすべきは常の道にあらず、と云へるは、川の川とすべきは常の川にあらずと云に同じ、夫堤を築き堰を張り、水門を立てゝ引たる川は、人作の川にして、自然の常の川にあらぬ故に、大雨の時は、皆破(やぶ)るゝ川なりと、天然自然の理を云へるなり、理は理なりといへ共、人道とは大に異なり、人道は、此川は堤を築き、堰を張て引たる川なれば、年々歳々普請(ふしん)手入をして、大洪水ありとも、破損のなき様にと力を尽し、若(もし)流失したる時は、速(すみやか)に再興して元の如く、早く修理せよと云を人道とす、元築(つき)たる堤なれば崩(くず)るゝ筈(はず)、開きたる田なれば荒るゝ筈といふは、言ずとも知れたる事なり、彼は自然を道とすれば、夫を悪しと云にはあらねど、人道には大害あり、到底(とうてい)老子の道は、人は生れたる物なり、死するは当り前の事なり、是を歎(なげ)くは愚なり、と云へるが如し、人道は夫と異(こと)なり、他人の死を聞ても、扨(さて)気の毒の事なりと歎くを道とす、況(いわん)や親子兄弟親戚(しんせき)に於るをや、是等の理を以て押(お)して知べきなり

現代語訳

ある人が問うた。老子に「道の道とすべきは常道にあらず」とあるのはどういう意味ですか。翁が言われた。老子のいう「常」とは、天然自然の永遠に変わらないものを指している。聖人の道は人道を元とする。人道は自然に基づくとはいえ、自然とは異なるものだ。なぜなら、人は米麦を食とするが、米麦は自然のものではなく、田畑に作らなければ得られないものだ。その田畑というものもまた自然ではなく、人の開拓によってできたものだ。田を開拓するには、堤を築き川を堰き止め、溝を掘り水を引き上げ畦を立てて、初めて水田ができる。もとは自然に基づくとはいえ、自然ではなく人の作為であることは明らかだ。すべて人道はこのようなものである。だから法律を立て規則を定め、礼楽といい刑政といい、格式といった煩わしい道具を並べ立てて、国家の安寧はようやく成り立つ。これは米を食べるために堤を築き堰を張り、溝を掘り畦を立てて田を開くのと同じだ。これを聖人の道と尊ぶのは、米を食べようとする米食い仲間の人のことである。老子がこれを見て「道の道とすべきは常の道にあらず」と言ったのは、「川の川とすべきは常の川にあらず」と言うのと同じだ。堤を築き堰を張り水門を立てて引いた川は人造の川であって、自然の常の川ではないから、大雨のときは皆決壊する川だ、と天然自然の理を言ったのである。理は理だが、人道とは大いに異なる。人道は、この川は堤を築き堰を張って引いた川だから、毎年毎年工事の手入れをして、大洪水があっても破損のないように力を尽くし、もし流失したときは速やかに再興して元のように早く修理せよ、というのを人道とする。もともと築いた堤だから崩れるはず、開いた田だから荒れるはず、というのは言わずとも知れたことだ。老子は自然を道とするから、それを悪いとは言わないが、人道には大きな害がある。つまるところ老子の道は「人は生まれたもの、死ぬのは当たり前だ、これを嘆くのは愚かだ」と言うようなものだ。人道はそれとは異なり、他人の死を聞いても「さて気の毒なことだ」と嘆くのを道とする。ましてや親子兄弟親戚においてはなおさらだ。これらの理から推し量って知るべきである。

解説

老子の「道の道とすべきは常道にあらず」を、尊徳は自然と人道の対比として鮮やかに読み解きます。米麦も田畑も自然のままにはなく、堤を築き溝を掘る人の作為があって初めて成り立つ――法律も礼楽も、田を開くのと同じ人為の営みだというのです。老子は自然の理を語るが、堤は崩れ田は荒れると放置すれば人の暮らしは害を受ける。だから毎年手入れをし、壊れれば速やかに直すのが人道だと説きます。他人の死を「当たり前」と突き放す自然の論理に対し、「気の毒」と嘆き手をかけ続けるのが人の道――尊徳の思想は、自然に順いつつも人為の努力(勤労と積小為大)を怠らぬ実践哲学です。放置すれば荒廃する組織や暮らしを、絶えざる手入れで支える姿勢は現代にも通じます。

この章句が説くこと

二宮翁夜話報徳老子人道自然勤労

この一句を、あなたの毎日に。

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