二宮翁夜話 / 巻之四
家僕芋種を埋めて、其上に芋種と記せし、木札を立たり、翁曰、卿等大道は文字の上にある物と思ひ、文字のみを研究して、学問と思へるは違り、文字は道を伝ふる器械にして、道にはあらず、然るを書物を読て道と思ふは過ちならずや、道は書物にあらずして、行ひにあるなり、今彼の処に立たる木札の文字を見るべし、此札の文字によりて、芋種を掘出し、畑に植て作ればこそ食物となれ、道も同く目印の書物によりて、道を求めて身に行ふて、初て道を得るなり、然らざれば、学問と云ふべからず、只本読みのみ。
書き下し
家僕(かぼく)芋種(いもだね)を埋(うず)めて、其(そ)の上に芋種と記(しる)せし、木札を立てたり。翁(おきな)曰(いわ)く、卿等(けいら)大道は文字の上にある物と思ひ、文字のみを研究して、学問と思へるは違(たが)へり。文字は道を伝ふる器械(きかい)にして、道にはあらず。然(しか)るを書物を読みて道と思ふは過(あやま)ちならずや。道は書物にあらずして、行ひにあるなり。今彼(か)の処に立てたる木札の文字を見るべし。此(こ)の札の文字によりて、芋種を掘出し、畑に植ゑて作ればこそ食物となれ。道も同じく目印の書物によりて、道を求めて身に行ふて、初めて道を得るなり。然らざれば、学問と云ふべからず、只(ただ)本読みのみ。
現代語訳
下男が芋の種を埋め、その上に「芋種」と記した木札を立てた。翁が言われた。おまえたちは、大いなる道が文字の上にあると思い、文字ばかりを研究して学問だと思っているが、それは間違いだ。文字は道を伝える道具であって、道そのものではない。それなのに書物を読むことを道だと思うのは誤りではないか。道は書物にあるのではなく、実践にあるのだ。あそこに立っている木札の文字を見なさい。あの札の文字を頼りに芋の種を掘り出し、畑に植えて育てるからこそ食べ物になる。道も同じで、目印である書物によって道を求め、それを我が身で実行して、初めて道を得るのだ。そうでなければ学問とは言えない、ただの本読みにすぎない。
解説
「芋種」と記した木札を手がかりに、学問と実践の関係を鮮やかに説いた一条です。木札の文字は、埋めた種の在り処を示す目印にすぎず、それを掘り出して畑に植えてこそ食べ物になる――尊徳は書物も同じだと言います。文字は道を伝える道具であって道そのものではなく、書物で得た教えを我が身で実行して初めて「道を得た」といえる。読むだけで満足するのは学問ではなく「ただの本読み」だと断じます。知行合一を、農作業の具体に即して語るところに尊徳の実学の真骨頂があります。現代でも、本や情報を集めるだけで学んだ気になりがちな私たちに、知識は実践に移してこそ生きるという根本を、身近な芋の種で教えてくれる一節です。
この章句が説くこと
二宮翁夜話報徳芋種の木札知行合一実学実践
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