二宮翁夜話 / 巻之二
綾部の城主九鬼侯、御所蔵の神道の書物十巻、是を見よとて翁に送らる、翁暇なきを以て、封を解き玉はざる事二年、翁一日少しく病あり、予をして此書を開き、病床にて読しめらる、翁曰、此書の如きは皆神に仕ふる者の道にして、神の道にはあらざるなり、此書の類万巻あるも、国家の用をなさず、夫神道と云物、国家の為、今日上、用なき物ならんや、中庸にも、道は須臾も離るべからず、離るべきは道にあらず、と云り、世上道を説ける書籍、大凡此類なり、此類の書あるも益なく、無きも損なきなり、予が歌に「古道に積る木の葉をかき掻分けて天照す神のあし跡を見む」とよめり、古道とは皇国固有の大道を云、積る木の葉とは儒仏を始諸子百家の書籍の多きを云、夫皇国固有の大道は、今現に存すれども、儒仏諸子百家の書籍の木の葉の為に蓋れて見えぬなれば、是を見んとするには、此木の葉の如き書籍をかき分けて大御神の御足の跡はいづこにあるぞと、尋ねざれば、真の神道を見る事は出来ざるなり、汝等落積りたる木の葉に目を付るは、大なる間違ひなり、落積りたる木の葉を掻分け捨て、大道を得る事を勤めよ、然らざれば、真の大道は、決して得る事はならぬなり。
書き下し
綾部の城主九鬼侯、御所蔵の神道の書物十巻、是を見よとて翁に送らる、翁暇(いとま)なきを以て、封を解き玉(たま)はざる事二年、翁一日少しく病あり、予をして此の書を開き、病床にて読(よ)ましめらる、翁曰(いわ)く、此の書の如きは皆神に仕ふる者の道にして、神の道にはあらざるなり、此の書の類(るい)万巻あるも、国家の用をなさず、夫(そ)れ神道と云ふ物、国家の為、今日上、用なき物ならんや、中庸にも、道は須臾(しばらく)も離(はな)るべからず、離るべきは道にあらず、と云へり、世上道を説ける書籍、大凡(おおよそ)此の類なり、此の類の書あるも益なく、無きも損(そん)なきなり、予が歌に「古道に積る木の葉をかき掻(か)き分けて天照す神のあし跡を見む」とよめり、古道とは皇国固有の大道を云ふ、積る木の葉とは儒仏を始(はじ)め諸子百家の書籍の多きを云ふ、夫れ皇国固有の大道は、今現に存すれども、儒仏諸子百家の書籍の木の葉の為に蓋(おお)はれて見えぬなれば、是を見んとするには、此の木の葉の如き書籍をかき分けて大御神の御足の跡はいづこにあるぞと、尋(たず)ねざれば、真の神道を見る事は出来ざるなり、汝等(なんじら)落積(おちつも)りたる木の葉に目を付くるは、大なる間違ひなり、落積りたる木の葉を掻き分け捨てて、大道を得る事を勤(つと)めよ、然らざれば、真の大道は、決して得る事はならぬなり。
現代語訳
綾部の城主九鬼侯が、蔵に収める神道の書物十巻を、これを見よといって翁に送ってこられた。翁は暇がなく、封を解かないまま二年が過ぎた。あるとき翁が少し病になり、私にこの書を開かせて、病床で読ませられた。翁が言われた。この書のようなものはみな神に仕える者の道であって、神の道ではない。この種の書が万巻あったとしても、国家の役には立たない。そもそも神道というものは、国家のため、今日の実際の役に立たないものであろうか、そんなはずはない。『中庸』にも「道は少しの間も離れてはならない、離れてよいものは道ではない」とある。世に道を説く書物はおおよそこの類だ。この種の書はあっても益がなく、なくても損はない。私は歌に「古道に積もる木の葉をかき分けて天照す神の足跡を見よう」と詠んだ。古道とはこの国固有の大道をいい、積もる木の葉とは儒教・仏教をはじめ諸子百家の書物の多さをいう。この国固有の大道は今も現に存在しているのに、儒仏諸子百家の書物という木の葉に覆われて見えないのだから、これを見ようとするには、この木の葉のような書物をかき分けて、大御神の御足の跡はどこにあるのかと尋ねなければ、真の神道を見ることはできない。お前たちが落ち積もった木の葉に目を向けるのは大きな間違いだ。落ち積もった木の葉をかき分けて捨て、大道を得ることに努めよ。そうしなければ、真の大道は決して得られないのだ。
解説
この章句が説くこと
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二宮翁夜話・巻之二翁曰(いわ)く、夫(そ)れ神道は、開闢(かいびゃく)の大道皇国本源の道なり、豊芦原(とよあしはら)を、此の如き瑞穂(みずほ)の国安国と治(おさ)めたまひし大道なり、此の開国の道、則(すなわ)ち真の神道なり、我が神道盛んに行はれてより後にこそ、儒道も仏道も入り来れるなれ、我が神道開闢の道未(いま)だ盛んならざるの前に、儒仏の道の入り来るべき道理あるべからず、我が神道、則ち開闢の大道先(ま)づ行はれ、十分に事足るに随(したが)ひてより後、世上に六(むつ)かしき事も出来るなり、其の時にこそ、儒も入用、仏も入用なれ、是れ誠に疑ひなき道理なり、譬(たと)へば未だ嫁(よめ)のなき時に夫婦喧嘩(げんか)あるべからず、未だ子幼少なるに親子喧嘩あるべからず、嫁有りて後に夫婦喧嘩あり、子生長して後に親子喧嘩あるなり、此の時に至りてこそ、五倫五常も悟道治心も、入用となるなれ、然るを世人此の道理に暗(くら)く、治国治心の道を以て、本元の道とす、是れ大なる誤りなり、夫れ本元の道は開闢の道なる事明なり、予此の迷ひを醒(さ)まさん為に「古道につもる木の葉をかきわけて天照す神の足跡を見ん」とよめり、能く味(あじわ)ふべし、大御神の足跡のある処、真の神道なり、世に神道と云ふものは、神主の道にして、神の道にはあらず、甚(はなは)だしきに至りては、巫祝(ふしゅく)の輩(ともがら)が、神札を配りて米銭を乞ふ者をも神道者と云ふに至れり、神道と云ふ物、豈(あに)此の如く、卑(いや)しき物ならんや、能く思ふべし。
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二宮翁夜話・巻之四或(ある)ひと曰(いわ)く、恵心僧都(えしんそうず)の伝記に曰く、今の世の仏者達の申さるる仏道が誠の仏道ならば、仏道ほど世に悪(あ)しき物はあるまじ、といはれし事見えたり、面白き言葉にあらずや。翁曰く、誠に名言なり。只(ただ)仏道のみにあらず、儒道も神道も又同じかるべし。今時(いまどき)の儒者達の行はるゝ処が、誠の儒道ならば、世に儒道ほどつまらぬ物はあるまじ、今時の神道者達の申さるゝ神道が、誠の神道ならば、神道ほど無用の物はあるまじ、と予(よ)も思ふなり。夫(そ)れ神道は天地開闢(かいびゃく)の大道にして、豊蘆原(とよあしはら)を瑞穂(みずほ)の国、安国(やすくに)と治め給ひし、道なる事、弁(べん)を待たずして明なり。豈(あに)当世巫祝(ふしゅく)者流、神札を配(くば)りて、米銭を乞ふ者等の、知る処ならんや。川柳に「神道者身にぼろぼろを纏(まと)ひ居り」と云へり。今の世の神道者、貧困に窮する事斯(か)くの如し。是(これ)真の神道を知らざるが故なり。夫れ神道は、豊芦原(とよあしはら)を瑞穂の国とし、漂(ただよ)へる国を安国と固(かた)め成す道なり。然(しか)る大道を知る者、決して貧窮に陥(おちい)るの理なし。是神道の何物たるを知らざるの証なり。歎(なげ)かはしき事ならずや。
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二宮翁夜話・巻之四神儒仏(しんじゅぶつ)の書、数万巻あり、それを研究(けんきゅう)するも、深山(しんざん)に入りて坐禅(ざぜん)するも、其(そ)の道を上(のぼ)り極(きわ)むる時は、世を救(すく)ひ、世を益(えき)するの外(ほか)に道は有るべからず。若(も)し有りといへば、邪道なるべし。正道は必ず世を益するの一つなり。縦令(たと)ひ学問するも、道を学ぶも、此処(ここ)に到らざれば、葎(むぐら)蓬(よもぎ)の徒(いたずら)にはひ広がりたるが如く、人世(じんせい)に用(よう)無き物なり。人世に用無き物は、尊(たっと)ぶにたらず、広がれば広がる程、世の害なり。幾年(いくとせ)の後か、聖君(せいくん)出でて、此の如き無用の書は焼捨(やきす)つる事もなしといふべからず。焼捨つる事なきも、荒蕪(こうぶ)を開くが如く、無用なる葎蓬を刈捨(かりす)てて、有用の道の広まる、時節もなしと云ふべからず。兎(と)も角(かく)も、人世に益なき書は見るべからず、自他に益なき事は為すべからず。光陰(こういん)は矢の如し、人生は六十年といへども、幼老(ようろう)の時あり、疾病(しっぺい)あり、事故あり、事を為すの日は至(いた)りて少なければ、無用の事はなす勿(なか)れ。
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二宮翁夜話・続篇翁(おきな)曰(いわ)く、凡庸(ぼんよう)の者は、繁多(はんた)なることの記憶は出来兼(か)ぬるものなり。譬(たと)へば此(こ)の茶碗、十や二十は、誰にても数ふる事容易なれども、之を四百五百とする時は中々間違へぬ様に数ふる事は出来ぬものなり。数多き物に番号を付ける時、二十や三十迄は間違ふ事無けれど、三百四百となると知らず知らず間違ふものなり。故に予(われ)は唯(ただ)一理を明かにする事を尊むなり。一理誠に明かなれば、万理に通ず。天地の間、最(もっと)も知り難き道理は、言論強く雄弁の者の勝(かち)となるべし。故に孔子は一以て之を貫くと言はれたり。卿等(けいら)此処に眼を付けて能く思考せば、世界万般の道理おのづから知らるべし。予が歌に「古道(ふるみち)につもる木の葉をかきわけて、天照(あまて)らす神の足跡を見ん」。足跡を見る事を得ば万理一貫すべし。然(しか)せずして徒(いたずら)に仁は云々、義は云々と云ふ時は、之を聴くも之を講ずるも共に無益なり。余(よ)は云ふに足らず、聞くに足らず。
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二宮翁夜話・巻之四翁(おきな)曰(いわ)く、天道(てんどう)は自然(しぜん)なり、人道(じんどう)は天道に随(したが)ふといへ共(ども)、又(また)人為(じんい)なり、人道を尽(つく)して天道に任(まか)すべし、人為を忽(ゆるがせ)にして、天道を恨(うら)むる事勿(なか)れ、夫(そ)れ庭前(ていぜん)の落葉(らくよう)は天道なり、無心にして日々夜々に積(つも)る、是(これ)を払(はら)はざるは人道に非(あら)ず、払へども又落(お)つる、之(これ)に心を煩(わずら)はし、之に心を労し、一葉(いちよう)落つれば、箒(ほうき)を取りて立(た)つが如(ごと)き、是塵芥(じんかい)の為に、役(やく)せらるゝなり、愚(ぐ)と云ふべし、木の葉の落つるは天道なり、人道を以て、毎朝一度は払ふべし、又落つるとも捨置(すてお)きて、無心の落葉に役せらるゝ事勿れ、又人道を忽にして積り次第にする事勿れ、是人道なり、愚人といへども悪人といへども、能(よ)く教ふべし、教へて聞かざるも、是に心を労する事勿れ、聞かぬとて捨(す)つる事なく、幾度(いくたび)も教ふべし、教へて用(もち)ひざるも憤(いきどお)る事勿れ、聞かずとて捨つるは不仁(ふじん)なり、用ひぬとて憤るは不智(ふち)なり、不仁不智は徳者(とくしゃ)の恐るゝ処なり、仁智(じんち)二つ心掛(こころが)けて、我が徳を全(まっと)うすべし。
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二宮翁夜話・巻之二翁曰(いわ)く、大道は譬(たと)へば水の如し、善く世の中を潤沢(じゅんたく)して滞(とどこお)らざる物なり、然(しか)る尊き大道も、書に筆して書物と為す時は、世の中を潤沢する事なく、世の中の用に立つ事なし、譬へば水の氷りたるが如し、元水には相違なしといへども、少しも潤沢せず、水の用はなさぬなり、而(しか)て書物の注釈と云ふ物は又氷に氷柱(つらら)の下りたるが如く、氷の解(と)けて又氷柱と成りしに同じ、世の中を潤沢せず、水の用を為さぬは、矢張(やは)り同様なり、扨(さて)此の氷となりたる経書を、世上の用に立てんには胸中の温気を以て、能(よ)く解して、元の水として用ひざれば、世の潤沢にはならず、実に無益の物なり、氷を解すべき温気(うんき)胸中になくして、氷の儘(まま)にて用ひて水の用をなすと思ふは愚の至りなり、世の中神儒仏の学者有りて世の中の用に立たぬは是が為なり、能く思ふべし、故に我が教は実行を尊む、夫(そ)れ経文と云ひ経書と云ふ、其の経と云ふは元機(はた)の竪糸(たていと)の事なり、されば、竪糸ばかりにては用をなさず、横に日々実行を織込て、初て用をなす物なり、横に実行を織らず、只竪糸のみにては益(えき)なき事、弁を待たずして明か也。