二宮翁夜話 / 巻之四
翁、某の寺に詣す、灌仏会あり、翁曰、天上天下唯我独尊と云事を、俠客者流など、広言を吐て、天下広しといへ共、我に如く者なしなど云と同く、釈氏の自慢と思ふ者あり、是誤なり、是は釈氏のみならず、世界皆、我も人も、唯此、我こそ、天上にも、天下にも尊き者なれ、我に勝りて尊き物は、必無きぞと云、教訓の言葉なり、然ば則銘々各々、此我身が天地間に上無き尊き物ぞ、如何となれば、天地間我なければ、物無きが如くなればなり、されば銘々各々皆、天上天下唯我独尊なり、犬も独尊なり、鷹も独尊也、猫も杓子も独尊と云て可なる物なり。
書き下し
翁(おきな)、某(それがし)の寺に詣(けい)す、灌仏会(かんぶつえ)あり。翁曰(いわ)く、天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)と云ふ事を、俠客(きょうかく)者流(しゃりゅう)など、広言(こうげん)を吐(は)きて、天下広しといへ共、我に如(し)く者なしなど云ふと同じく、釈氏(しゃくし)の自慢と思ふ者あり、是(これ)誤りなり。是は釈氏のみならず、世界皆、我も人も、唯(ただ)此(こ)の、我こそ、天上にも、天下にも尊き者なれ、我に勝(まさ)りて尊き物は、必ず無きぞと云ふ、教訓の言葉なり。然(しか)らば則(すなわ)ち銘々各々、此の我身が天地間に上無き尊き物ぞ。如何(いか)となれば、天地間我なければ、物無きが如くなればなり。されば銘々各々皆、天上天下唯我独尊なり。犬も独尊なり、鷹(たか)も独尊なり、猫(ねこ)も杓子(しゃくし)も独尊と云て可なる物なり。
現代語訳
翁がある寺に参詣した。ちょうど灌仏会(釈迦の誕生を祝う法会)があった。翁が言われた。「天上天下唯我独尊」という言葉を、俠客の類が大言壮語して「天下は広いが、俺に及ぶ者はいない」などと言うのと同じで、釈迦の自慢だと思う者がいる。これは誤りだ。これは釈迦だけのことではなく、世界のすべて、自分も他人も、ただこの「我」こそが天上にも天下にも尊い者であり、我にまさって尊いものは必ずないのだ、という教えの言葉である。だから一人ひとり、この我が身が天地の間でこの上なく尊いものなのだ。なぜなら、天地の間に自分がいなければ、物が何も存在しないのと同じだからである。だから各人みな「天上天下唯我独尊」なのだ。犬も独尊、鷹も独尊、猫も杓子も独尊と言ってよいものである。
解説
「天上天下唯我独尊」を釈迦の自慢と誤解する俗説を退け、万人・万物に尊厳が宿るという普遍の教えとして読み解いた一条です。尊徳は、自分にとって世界は自分がいてこそ存在するのだから、我が身はこの上なく尊い――しかしそれは自分だけでなく、他人も、犬も鷹も、猫も杓子もみな等しく「独尊」なのだと説きます。自己を尊ぶことが他者への軽視ではなく、一切の生命への尊敬に開かれていく点に、報徳の至誠と分度の精神が通じています。現代の言葉でいえば、かけがえのない自分を大切にすることと、他者の尊厳を認めることは矛盾しない、という命の平等観を教えてくれる一節です。
この章句が説くこと
二宮翁夜話報徳唯我独尊灌仏会命の尊厳至誠
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