二宮翁夜話 / 巻之四
或曰、女大学は、貝原氏の著なりといへど、女子を圧する甚過たるにあらずや。翁曰、然らず、女大学は婦女子の教訓、至れり尽せり、婦道の至宝と云べし、斯の如くなる時は、女子の立つべき道なきが如しといへ共、是女子の教訓書なるが故なり、婦女子たる者、能此理を知らば、斉はざる家はあらじ、舜の瞽瞍に仕へしは、則子たる者の道の極にして、同一の理なり、然といへ共、若男子にして女大学を読み、婦道はかゝる物と思ふは以の外の過なり、女大学は女子の教訓にして、貞操心を鍛練するための書なり、夫鉄も能々鍛練せざれば、折れず曲らざるの刀とならざるが如し、総て教訓は皆然り、されば、男子の読べき物にあらず、誤解する事勿れ、世に此心得違往々あり、夫教は各々異なり、論語を見ても知らるべし、君には君の教あり、民には民の教あり、親には親、子には子の教あり、君は民の教を学ぶ事勿れ、民は君の教を学ぶなかれ、親も又然り、子も又然り、君民親子夫婦兄弟皆然り、君は仁愛を講明すべし、民は忠順を道とすべし、親は慈愛、子は孝行、各々己が道を違へざれば、天下泰平なり、之に反すれば乱なり、男子にして、女大学を読む事勿れと云は、是が為なり、譬ば教訓は病に処する藥方の如し、其病に依て施す物なればなり。
新字:或曰、女大学は、貝原氏の著なりといへど、女子を圧する甚過たるにあらずや。翁曰、然らず、女大学は婦女子の教訓、至れり尽せり、婦道の至宝と云べし、斯の如くなる時は、女子の立つべき道なきが如しといへ共、是女子の教訓書なるが故なり、婦女子たる者、能此理を知らば、斉はざる家はあらじ、舜の瞽瞍に仕へしは、則子たる者の道の極にして、同一の理なり、然といへ共、若男子にして女大学を読み、婦道はかゝる物と思ふは以の外の過なり、女大学は女子の教訓にして、貞操心を鍛練するための書なり、夫鉄も能々鍛練せざれば、折れず曲らざるの刀とならざるが如し、総て教訓は皆然り、されば、男子の読べき物にあらず、誤解する事勿れ、世に此心得違往々あり、夫教は各々異なり、論語を見ても知らるべし、君には君の教あり、民には民の教あり、親には親、子には子の教あり、君は民の教を学ぶ事勿れ、民は君の教を学ぶなかれ、親も又然り、子も又然り、君民親子夫婦兄弟皆然り、君は仁愛を講明すべし、民は忠順を道とすべし、親は慈愛、子は孝行、各々己が道を違へざれば、天下泰平なり、之に反すれば乱なり、男子にして、女大学を読む事勿れと云は、是が為なり、譬ば教訓は病に処する薬方の如し、其病に依て施す物なればなり。
書き下し
或(ある)ひと曰(いわ)く、女大学(おんなだいがく)は、貝原(かいばら)氏の著なりといへど、女子を圧(あっ)する甚(はなは)だ過(す)ぎたるにあらずや。翁(おきな)曰く、然(しか)らず、女大学は婦女子(ふじょし)の教訓(きょうくん)、至れり尽(つく)せり、婦道(ふどう)の至宝(しほう)と云ふべし。斯(か)くの如くなる時は、女子の立つべき道なきが如しといへ共(ども)、是(これ)女子の教訓書なるが故なり。婦女子たる者、能(よ)く此の理(り)を知らば、斉(ととの)はざる家はあらじ。舜(しゅん)の瞽瞍(こそう)に仕へしは、則(すなわ)ち子たる者の道の極(きょく)にして、同一の理なり。然といへ共、若(も)し男子にして女大学を読み、婦道はかゝる物と思ふは以(もっ)ての外(ほか)の過(あやま)ちなり。女大学は女子の教訓にして、貞操(ていそう)心を鍛練(たんれん)するための書なり。夫(それ)鉄(てつ)も能々(よくよく)鍛練せざれば、折れず曲(まが)らざるの刀とならざるが如し。総(すべ)て教訓は皆然り。されば、男子の読むべき物にあらず、誤解する事勿(なか)れ。世に此の心得違(こころえちが)ひ往々あり。夫(それ)教(おしえ)は各々(おのおの)異(こと)なり、論語を見ても知らるべし。君には君の教あり、民には民の教あり、親には親、子には子の教あり。君は民の教を学ぶ事勿れ、民は君の教を学ぶなかれ、親も又然り、子も又然り、君民親子夫婦兄弟皆然り。君は仁愛(じんあい)を講明(こうめい)すべし、民は忠順(ちゅうじゅん)を道とすべし、親は慈愛(じあい)、子は孝行、各々己(おの)が道を違(たが)へざれば、天下泰平なり、之に反すれば乱なり。男子にして、女大学を読む事勿れと云ふは、是が為なり。譬(たと)へば教訓は病に処(しょ)する薬方(やくほう)の如し、其の病に依(よ)りて施(ほどこ)す物なればなり。
現代語訳
ある人が言った。『女大学』は貝原益軒の著だというが、女性を抑えつけることが甚だしすぎるのではないか。翁が言われた。そうではない。『女大学』は女性のための教訓として至れり尽くせりで、婦道の至宝というべきものだ。これだけだと女性に立つ瀬がないように見えるが、それは女性向けの教訓書だからである。女性たる者がよくこの道理を心得れば、整わない家はあるまい。舜が頑迷な父・瞽瞍に仕えたのは、子たる者の道の極致で、これと同じ道理だ。とはいえ、もし男が『女大学』を読んで、女の道とはこういうものだと思うのは、とんでもない誤りだ。『女大学』は女性のための教訓で、貞操の心を鍛えるための書である。鉄もよくよく鍛えなければ、折れず曲がらない刀にならないのと同じだ。すべて教訓とはそういうものだ。だから男が読むべきものではない。誤解してはならない。世間にはこの心得違いがしばしばある。そもそも教えはそれぞれ異なる。『論語』を見ても分かるはずだ。君主には君主の教え、民には民の教え、親には親、子には子の教えがある。君主は民の教えを学ぶな、民は君主の教えを学ぶな。親もまた同じ、子もまた同じ。君臣・親子・夫婦・兄弟すべてそうだ。君主は仁愛を明らかにし、民は忠順を道とし、親は慈愛、子は孝行と、それぞれ自分の道を外さなければ天下は泰平だ。これに反すれば乱れる。男が『女大学』を読むなというのはこのためだ。たとえば教訓とは病に応じて処方する薬のようなもので、その病に応じて与えるものだからである。