二宮翁夜話 / 巻之四
翁曰、創業は難し、守るは安しと、守るの安きは論なしといへども、満たる身代を、平穏に維持するも又難き業なり、譬ば器に水を満て、之を平に持て居れと、命ずるがごとし、器は無心なるが故に、傾く事はあらねど、持つ人の手が労るゝか、空腹になるか、必永く平に持て居る事は、出来ざるに同じ、扨此満を維持するは、至誠と推譲の道にありといへ共、心正平ならざれば、之を行ふに至て、手違ひを生じ、折角の至誠推譲も水泡に帰する事あるなり、大学に、心忿懥する所、恐懼する所、好楽する処、憂患する処あれば、則其正を得ず、と云り、実に然るなり、能心得べし、能研きたる鏡も、中凹き時は顔痩て見へ、中凸き時は顔太りて見ゆる也、鏡面平ならざれば、能研ぎたる鏡も其詮なく、顔ゆがみて見ゆるに同じ、心正平ならざれば、見るも聞くも考へも、皆ゆがむべし、慎まずばあるべからず。
書き下し
翁曰く、創業は難し、守るは安しと、守るの安きは論なしといえども、満(み)ちたる身代(しんだい)を、平穏に維持(いじ)するも又難き業なり、譬(たと)えば器(うつわ)に水を満(み)てて、之(これ)を平(たいら)に持て居(お)れと、命ずるがごとし、器は無心なるが故に、傾(かたむ)く事はあらねど、持つ人の手が労(つか)るるか、空腹になるか、必ず永く平に持て居る事は、出来ざるに同じ、扨(さて)此の満を維持するは、至誠と推譲(すいじょう)の道にありといえども、心正平(せいへい)ならざれば、之を行うに至りて、手違いを生じ、折角の至誠推譲も水泡(すいほう)に帰する事あるなり、大学に、心忿懥(ふんち)する所、恐懼(きょうく)する所、好楽(こうらく)する処、憂患(ゆうかん)する処あれば、則(すなわ)ち其の正を得ず、と云えり、実に然るなり、能(よ)く心得べし、能く研(みが)きたる鏡(かがみ)も、中凹(くぼ)き時は顔痩(や)せて見え、中凸(たか)き時は顔太(ふと)りて見ゆるなり、鏡面平ならざれば、能く研ぎたる鏡も其の詮(せん)なく、顔ゆがみて見ゆるに同じ、心正平ならざれば、見るも聞くも考えも、皆ゆがむべし、慎(つつし)まずばあるべからず。
現代語訳
翁が言われた。「創業は難しく、守成はやさしい」というが、守るのがやさしいのは言うまでもないとしても、満ち足りた身代を平穏に維持するのもまた難しい仕事である。たとえば器に水を満たして、これを傾けずに平らに持っていろと命じるようなものだ。器は心を持たないから傾くことはないが、持つ人の手が疲れるか、腹が減るかして、必ず長く平らに保つことはできない。それと同じである。さて、この満ちた状態を維持するのは至誠と推譲の道にあるとはいえ、心が正しく平らでなければ、いざ行おうとしたときに手違いが生じ、せっかくの至誠も推譲も水の泡に帰することがある。『大学』に「心に怒るところ、恐れるところ、好み楽しむところ、憂えるところがあれば、その正しさを得られない」とある。まことにそのとおりだ。よく心得るべきである。よく磨いた鏡も、中央がくぼんでいれば顔が痩せて見え、中央が高ければ顔が太って見える。鏡面が平らでなければ、よく磨いた鏡も役に立たず、顔がゆがんで見えるのと同じだ。心が正しく平らでなければ、見ることも聞くことも考えることも、みなゆがんでしまう。慎まなければならない。