二宮翁夜話 / 巻之三
高野氏旅粧成りて暇を乞ふ、翁曰、卿に安全の守を授ん、則予が詠る「飯と汁木綿着物は身を助く其余は我をせむるのみなり」の歌なり、歌拙しとて軽視する事勿れ、身の安全を願はゞ此歌を守るべし、一朝変ある時に、我身方と成る物は、飯と汁木綿着物の外になし、是は鳥獣の羽毛と同く何方迄も身方なり、此外の物は、皆我身の敵と知るべし、此外の物、内に入るは敵の内に入るが如し、恐れて除き去るべし、是式の事は、是位の事はと云つゝ、自許す処より人は過つ物なり、初は害なしといへ共、年を経る間に思はず知らず、いつか敵と成て、悔る共及ばざる場合ひに立至る事あり、夫此位の事はと自許す処の物は、猪鹿の足跡の如く、隠す事能はず、終に我足跡の為に猪鹿の猟師に得らるゝに同じ、此物内に無き時は、暴君も汚吏も、如何共する事能はず、進んで我仕法を行ふ者、慎まずばあるべからず、必忘るゝ事勿れ、高野氏叩頭して謝す、波多八郎傍にあり、曰、古歌に「かばかりの事は浮世の習ひぞとゆるす心のはてぞ悲しき」と云るあり、教戒によりて思ひ出たり、予も感銘せり、と云ひ生涯忘れじと誓ふ
書き下し
高野氏旅粧(たびよそおい)成りて暇(いとま)を乞(こ)ふ、翁(おきな)曰(いわ)く、卿(けい)に安全の守(まもり)を授(さず)けん、則(すなわ)ち予(よ)が詠(よ)める「飯と汁木綿着物(もめんぎもの)は身を助く其余(そのよ)は我をせむるのみなり」の歌なり、歌拙(つたな)しとて軽視(けいし)する事勿(なか)れ、身の安全を願(ねが)はば此歌を守るべし、一朝(いっちょう)変(へん)ある時に、我身方(みかた)と成る物は、飯と汁木綿着物の外になし、是(これ)は鳥獣の羽毛と同じく何方(いずかた)迄も身方なり、此外の物は、皆我身の敵(てき)と知るべし、此外の物、内に入るは敵の内に入るが如し、恐れて除(のぞ)き去るべし、是式(これしき)の事は、是位(これくらい)の事はと云ひつつ、自(みずか)ら許す処より人は過(あやま)つ物なり、初は害なしといへ共、年を経る間に思はず知らず、いつか敵と成りて、悔(く)ゆる共及ばざる場合(ばあい)ひに立至(たちいた)る事あり、夫(それ)此位の事はと自ら許す処の物は、猪(い)鹿(しか)の足跡(あしあと)の如く、隠(かく)す事能(あた)はず、終(つい)に我足跡の為に猪鹿の猟師(りょうし)に得(え)らるるに同じ、此物内に無き時は、暴君(ぼうくん)も汚吏(おり)も、如何(いかん)共する事能はず、進んで我仕法(しほう)を行ふ者、慎(つつし)まずばあるべからず、必(かなら)ず忘(わす)るる事勿れ、高野氏叩頭(こうとう)して謝(しゃ)す、波多八郎(はたはちろう)傍(かたわ)らにあり、曰く、古歌に「かばかりの事は浮世(うきよ)の習ひぞとゆるす心のはてぞ悲(かな)しき」と云へるあり、教戒(きょうかい)によりて思ひ出(いで)たり、予も感銘(かんめい)せり、と云ひ生涯忘れじと誓(ちか)ふ
現代語訳
高野氏が旅支度を整えて別れを告げた。翁が言われた。あなたに安全のお守りを授けよう。それは私が詠んだ「飯と汁、木綿の着物は身を助ける。それ以外は自分を苦しめるだけだ」という歌である。歌が拙いといって軽んじてはならない。身の安全を願うなら、この歌を守るがよい。ひとたび変事が起きた時、自分の味方となる物は、飯と汁、木綿の着物のほかにない。これは鳥や獣の羽毛や毛と同じく、どこまでも味方だ。それ以外の物は、みな自分の敵だと知るべきだ。それ以外の物が身の内に入るのは、敵が内に入るようなものだ。恐れて取り除いてしまうべきだ。「これしきのこと、これくらいのこと」と言いながら、自分に許すところから人は過ちを犯すものだ。初めは害がなくても、年を経るうちに思わず知らず、いつか敵となって、悔いても取り返しのつかない事態に立ち至ることがある。「この程度のこと」と自分に許した物は、猪や鹿の足跡のように隠すことができず、ついにはその足跡のために猪鹿が猟師に捕らえられるのと同じだ。こうした物が身の内に無ければ、暴君も汚職役人もどうすることもできない。進んで私の仕法を行おうとする者は、慎まねばならない。決して忘れてはならない。高野氏は頭を下げて礼を述べた。傍らにいた波多八郎が言った。古歌に「これくらいのことは浮世の習いだと自分に許す、その心の果てこそ悲しいものだ」とあります。ご教訓によって思い出しました。私も深く感銘しました、と言い、生涯忘れまいと誓った。
解説
この章句が説くこと
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、衣(ころも)は寒(かん)を凌(しの)ぎ、食は飢(うえ)を凌ぐのみにて足(た)れる物なり、其外(そのほか)は皆無用の事なり、官服(かんぷく)は貴賤(きせん)を分つ目印にて、男女の服(ふく)は只(ただ)粧(よそお)ひのみ、婦女子(ふじょし)の紅白粉(べにおしろい)と何ぞ異(こと)ならむ、紅白粉なくとも婦人あれば、結婚(けっこん)に支(つか)へなし、飢を凌ぐ為の食、寒を凌ぐ為の衣は、智愚(ちぐ)賢不肖(けんふしょう)を分たず、学者(がくしゃ)にても無学者にても、悟(さと)りても迷(まよ)ひても、離(はな)るる事は出来ぬ物なり、是(これ)を備(そな)ふる道こそ人道の大元(おおもと)、政道(せいどう)の本根(ほんこん)なり、予(よ)が歌に「飯と汁木綿着物(もめんぎもの)ぞ身を助く其余(そのよ)は我をせむるのみなり」と詠(よ)めり、是我道(わがみち)の悟門(ごもん)なり、能々(よくよく)徹底(てってい)すべし、予若年(じゃくねん)より食は飢を凌ぎ、衣は寒を凌ぎて足れりとせり、只此(この)覚悟(かくご)一にして今日に及べり、我道を修行し施行(せぎょう)せんと思ふ者は、先(ま)づ能(よ)く此理(このり)を悟るべきなり
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)某(それがし)の駅(えき)の旅舎(はたごや)に宿泊せらる、床(とこ)に「人常に菜根(さいこん)を咬(か)み得ば則(すなわ)ち百事(ひゃくじ)做(な)すべし」と書ける幅(ふく)あり、翁曰(いわ)く、菜根何の功能(こうのう)ありて、然(しか)るかと考(かんが)ふるに、是(これ)は麁食(そしょく)になれて、夫(それ)を不足に思はざる時は、為す事皆成就(じょうじゅ)すと云ふ事なり、予(よ)が歌に「飯と汁木綿着物」とよめるに同じ、能(よ)き教訓なり、又傍(かたわ)らに「かくれ沼(ぬま)の藻(も)にすむ魚も天伝(あまつた)ふ日の御影(みかげ)にはもれじとぞ思ふ」とかける短冊(たんざく)あり、翁曰く、此歌面白(おもしろ)し、夫(それ)米は地より生ずる様なれども、元は天より降(ふ)るに同じ、太陽日々、天より照(てら)す処の温気(うんき)が、地に入り、其力にて米穀(べいこく)は熟(じゅく)するなり、春分耕(たがや)し初むる頃(ころ)より、秋分実法(みの)るまでを、尺杖(しゃくづえ)の如く図(ず)して見よ、十日照れば十日丈(だけ)、一月照れば一月丈、地に米穀となるべき温気が入りて居る故、仮令(たとい)其間に雨天冷気等ありといへども、夫まで照り込んで居る丈は実法るなり、然れ共人力を尽(つく)さざれば、実法少きは、耕し鋤(す)き掻(か)きの功多ければ、太陽の温気地に入る事多きが故なり、地上の万物一つとして、天日(てんじつ)の御影(みかげ)にもれたる物はなし、海底の水草すら雨天冷気の年は繁茂(はんも)せずと云へり、左(さ)もあるべし、此歌、歌人の詠には珍らし
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、「咲(さけ)ばちり散(ち)れば又さき年毎(としごと)に詠(なが)め尽(つき)せぬ花の色々(いろいろ)」、困窮(こんきゅう)に陥(おちい)り、如何(いか)ともすべき様(よう)なくて、売出(うりだ)す物品を、安(やす)ひ物だと悦(よろこ)んで買(か)ひ、又不運(ふうん)極(きわま)り拠(よりどころ)なく、家を売て裏店(うらだな)へ引込(ひきこ)めば、表店(おもてだな)へ出て目出度(めでたし)と悦ぶ者、絶(たえ)ずある世の中なり、「増減(ぞうげん)は器(うつわ)傾(かたむ)く水と見よこちらに増(ま)せばあちらへるなり」、物価の騰貴(とうき)に、大利を得る者あれば、大損(たいそん)の者あり、損をして悲(かな)しむあれば、利を得て悦ぶ者あり、苦楽(くらく)存亡(そんぼう)栄辱(えいじょく)得失(とくしつ)、こちらが増(ま)すとあちらの減(へ)るとの外になし、皆是(これ)自他を見る事能(あた)はざる半人足(はんにんそく)の、寄合(よりあ)ひ仕事なり、「喰(く)へばへり減(へ)れば又喰ひいそがしや永(なが)き保(たも)ちのあらぬ此身(このみ)ぞ」、屋根は銅板(あかがねいた)で葺(ふ)き、蔵(くら)は石で築(きず)くべけれども、三度の飯(めし)を一度に喰ひ置く事は出来ず、やがて寒(さむさ)が来るとて、着物を先に着(き)て置(お)くと云ふ事も出来ぬ人身(ひとみ)なり、されば長くは生(いき)られぬは天命なり、「腹(はら)くちく喰ふてつきひく女子(おなご)等は仏(ほとけ)にまさる悟(さとり)なりけり」、我(わが)腹に食(しょく)満(みつ)れば寝(ね)て居るは、犬猫(いぬねこ)を始(はじめ)心無き物の常情(じょうじょう)なり、然るに食事を済(すま)すと、直(ただち)に明日(あす)喰ふべき物を拵(こしら)へるは、未来の明日の大切なる事を能(よく)悟(さと)る故なり、此悟(このさとり)こそ人道必用の悟なれ、此の理を能悟れば、人間は夫(それ)にて事足るべし、是(これ)我(わが)教、悟道(ごどう)の極意なり、悟道者流の悟りは、悟るも悟(さとら)ざるも、知るも知らざるも、共に害もなし益もなし、「我といふ其(その)大元(おおもと)を尋(たずぬ)れば食(く)ふと着(き)るとの二つなりけり」、人間世界の事は政事(せいじ)も教法(きょうほう)も、皆此二つの安全を計(はか)る為のみ、其他(そのた)は枝葉(しよう)のみ潤色(じゅんしょく)のみ
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二宮翁夜話・巻之一翁(おきな)曰(いわ)く、世の中に事なしといへども、変なき事あたはず、是(これ)恐るべきの第一なり、変ありといへども、是を補ふの道あれば、変なきが如し、変ありて是を補ふ事あたはざれば、大変に至る、古語に、三年の貯蓄(たくわえ)なければ国にあらず、と云(い)へり、兵隊ありといへども、武具軍用備(そなわ)らざればすべきやうなし、只(ただ)国のみにあらず、家も又(また)然(しか)り、夫(それ)万(よろず)の事有余(ゆうよ)無(なけ)れば、必(かならず)差支(さしつか)へ出来(いでき)て家を保つ事能(あた)はず、然(しか)るをいはんや、国天下をや、人は云ふ、我が教(おしえ)、倹約を専(もっぱ)らにすと、倹約を専らとするにあらず、変に備(そなえ)んが爲(ため)なり、人は云ふ、我道(わがみち)、積財を勤(つと)むと、積財を勤るにあらず、世を救ひ世を開かんが爲なり、古語に、飲食を薄うして孝を鬼神(きじん)に致し、衣服を悪(あし)うして美を黻冕(ふつべん)に致し、宮室を卑(いやし)うして力を溝洫(こうきょく)に尽すと、能々(よくよく)此(この)理を玩味(がんみ)せば、吝(りん)か倹(けん)か弁を待(また)ずして明かなるべし。
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、人生尊(たっと)ぶべき物は、天禄(てんろく)を第一とす、故に武士は天禄の為に、一命を抛(なげう)つなり、天下の政事(まつりごと)も神儒仏(しんじゅぶつ)の教も、其実(そのじつ)衣食住の三つの事のみ、黎民(れいみん)飢(う)ゑず寒(こご)えざるを王道(おうどう)とす、故に人たる者は、慎(つつし)んで天禄を守らずばあるべからず、固く天禄を守る時は、困窮艱難(こんきゅうかんなん)の患(うれ)ひなし、仮初(かりそめ)にも、我が天禄を賤(いや)しむの心出る時は、困窮艱難忽(たちま)ちに至る、夫(それ)天禄の尊き事は云ふ迄もなし、日々の衣食住其他、履(は)き物笠(からかさ)傘(かさ)よりして鼻をかむ紙迄も、皆天禄分内(ぶんない)の物なり、嫁(よめ)は他家より来る者といへ共、云ひもてゆけば、天禄の中より来ると云はんも違(たが)へるにあらず、然(しか)るに我此(この)方法は、天禄なき者に天禄を授け、天禄の破(やぶ)れんとするを補(おぎな)ひ、天禄の衰(おとろ)へたるを盛(さか)んに為し、且(か)つ天禄を分外に増殖し、天禄を永遠に維持(いじ)するの教なれば、尊き事論を俟(ま)たず、古語に、血気ある者、尊信(そんしん)せざる事なし、といへるは、我道(わがみち)の事なり
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二宮翁夜話・巻之一翁(おきな)曰(いわ)く、米は多く蔵につんで少しづゝ炊き、薪(たきぎ)は多く小屋に積んで焚く事は成る丈(たけ)少くし、衣服は着らるるやうに扱(こしら)へて、なる丈着ずして仕舞ひおくこそ、家を富(と)ますの術(じゅつ)なれ、則(すなわち)国家経済の根元なり、天下を富有にするの大道も、其実(そのじつ)この外にはあらぬなり。