二宮翁夜話 / 巻之三
翁曰、人生尊ぶべき物は、天禄を第一とす、故に武士は天禄の為に、一命を抛つなり、天下の政事も神儒仏の教も、其実衣食住の三つの事のみ、黎民飢ず寒えざるを王道とす、故に人たる者は、慎んで天禄を守らずばあるべからず、固く天禄を守る時は、困窮艱難の患なし、仮初にも、我が天禄を賤むの心出る時は、困窮艱難忽に至る、夫天禄の尊き事は云迄もなし、日々の衣食住其他、履き物笠傘よりして鼻をかむ紙迄も、皆天禄分内の物なり、嫁は他家より来る者といへ共、云もてゆけば、天禄の中より来ると云んも違へるにあらず、然に我此方法は、天禄なき者に天禄を授け、天禄の破んとするを補ひ、天禄の衰へたるを盛んに為し、且天禄を分外に増殖し、天禄を永遠に維持するの教なれば、尊き事論を俟ず、古語に、血気ある者、尊信せざる事なし、といへるは、我道の事なり
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、人生尊(たっと)ぶべき物は、天禄(てんろく)を第一とす、故に武士は天禄の為に、一命を抛(なげう)つなり、天下の政事(まつりごと)も神儒仏(しんじゅぶつ)の教も、其実(そのじつ)衣食住の三つの事のみ、黎民(れいみん)飢(う)ゑず寒(こご)えざるを王道(おうどう)とす、故に人たる者は、慎(つつし)んで天禄を守らずばあるべからず、固く天禄を守る時は、困窮艱難(こんきゅうかんなん)の患(うれ)ひなし、仮初(かりそめ)にも、我が天禄を賤(いや)しむの心出る時は、困窮艱難忽(たちま)ちに至る、夫(それ)天禄の尊き事は云ふ迄もなし、日々の衣食住其他、履(は)き物笠(からかさ)傘(かさ)よりして鼻をかむ紙迄も、皆天禄分内(ぶんない)の物なり、嫁(よめ)は他家より来る者といへ共、云ひもてゆけば、天禄の中より来ると云はんも違(たが)へるにあらず、然(しか)るに我此(この)方法は、天禄なき者に天禄を授け、天禄の破(やぶ)れんとするを補(おぎな)ひ、天禄の衰(おとろ)へたるを盛(さか)んに為し、且(か)つ天禄を分外に増殖し、天禄を永遠に維持(いじ)するの教なれば、尊き事論を俟(ま)たず、古語に、血気ある者、尊信(そんしん)せざる事なし、といへるは、我道(わがみち)の事なり
現代語訳
翁が言われた。人生で尊ぶべきものは天禄(天から授かった分け前・暮らしの糧)を第一とする。だから武士は天禄(俸禄)のために一命を投げ出すのだ。天下の政治も神儒仏の教えも、その実は衣食住の三つのことにほかならない。人民が飢えず凍えないようにするのを王道とする。だから人たる者は、慎んで天禄を守らねばならない。固く天禄を守れば、困窮艱難の憂いはない。かりそめにも自分の天禄を軽んじる心が起これば、困窮艱難がたちまち訪れる。そもそも天禄の尊いことは言うまでもない。日々の衣食住その他、履物や笠・傘から鼻をかむ紙に至るまで、みな天禄の分内の物である。嫁は他家から来る者だが、突き詰めて言えば、天禄の中から来ると言っても間違いではない。ところで私のこの方法は、天禄のない者に天禄を授け、破れかけた天禄を補い、衰えた天禄を盛んにし、さらに天禄を分を超えて増やし、天禄を永遠に維持する教えなのだから、尊いことは論じるまでもない。古語に「血気ある者で尊び信じない者はいない」とあるのは、まさに私の道のことである。