二宮翁夜話 / 巻之三
翁某の駅の旅舎に宿泊せらる、床に「人常に菜根を咬み得ば則百事做すべし」と書ける幅あり、翁曰、菜根何の功能ありて、然るかと考ふるに、是は麁食になれて、夫を不足に思はざる時は、為す事皆成就すと云事なり、予が歌に「飯と汁木綿着物」とよめるに同じ、能教訓なり、又傍に「かくれ沼の藻にすむ魚も天伝ふ日の御影にはもれじとぞ思ふ」とかける短冊あり、翁曰、此歌面白し、夫米は地より生ずる様なれども、元は天より降るに同じ、大陽日々、天より照す処の温気が、地に入り、其力にて米穀は熟するなり、春分耕し初むる頃より、秋分実法るまでを、尺杖の如く図して見よ、十日照れば十日丈、一月照れば一月丈、地に米穀となるべき温気が入りて居る故、仮令其間に雨天冷気等ありといへども、夫まで照り込んで居る丈は実法るなり、然れ共人力を尽さゞれば、実法少きは、耕し鋤き掻きの功多ければ、大陽の温気地に入る事多きが故なり、地上の万物一ッとして、天日の御影にもれたる物はなし、海底の水草すら雨天冷気の年は繁茂せずと云り、左もあるべし、此歌、々人の詠には珍らし
書き下し
翁(おきな)某(それがし)の駅(えき)の旅舎(はたごや)に宿泊せらる、床(とこ)に「人常に菜根(さいこん)を咬(か)み得ば則(すなわ)ち百事(ひゃくじ)做(な)すべし」と書ける幅(ふく)あり、翁曰(いわ)く、菜根何の功能(こうのう)ありて、然(しか)るかと考(かんが)ふるに、是(これ)は麁食(そしょく)になれて、夫(それ)を不足に思はざる時は、為す事皆成就(じょうじゅ)すと云ふ事なり、予(よ)が歌に「飯と汁木綿着物」とよめるに同じ、能(よ)き教訓なり、又傍(かたわ)らに「かくれ沼(ぬま)の藻(も)にすむ魚も天伝(あまつた)ふ日の御影(みかげ)にはもれじとぞ思ふ」とかける短冊(たんざく)あり、翁曰く、此歌面白(おもしろ)し、夫(それ)米は地より生ずる様なれども、元は天より降(ふ)るに同じ、太陽日々、天より照(てら)す処の温気(うんき)が、地に入り、其力にて米穀(べいこく)は熟(じゅく)するなり、春分耕(たがや)し初むる頃(ころ)より、秋分実法(みの)るまでを、尺杖(しゃくづえ)の如く図(ず)して見よ、十日照れば十日丈(だけ)、一月照れば一月丈、地に米穀となるべき温気が入りて居る故、仮令(たとい)其間に雨天冷気等ありといへども、夫まで照り込んで居る丈は実法るなり、然れ共人力を尽(つく)さざれば、実法少きは、耕し鋤(す)き掻(か)きの功多ければ、太陽の温気地に入る事多きが故なり、地上の万物一つとして、天日(てんじつ)の御影(みかげ)にもれたる物はなし、海底の水草すら雨天冷気の年は繁茂(はんも)せずと云へり、左(さ)もあるべし、此歌、歌人の詠には珍らし
現代語訳
翁がある宿場の旅籠屋に泊まられた。床の間に「人が常に菜根(粗末な食べ物)を噛んで平気でいられれば、あらゆる事を成し遂げられる」と書いた掛け軸があった。翁が言われた。菜根に何の効能があってそう言うのかと考えてみると、これは粗食に慣れてそれを不足と思わなくなれば、なす事はみな成就するという意味だ。私の歌の「飯と汁木綿着物」と同じで、よい教訓である。また傍らに「隠れ沼の藻にすむ魚も、天を伝う日の光からは漏れまいと思う」と書いた短冊があった。翁が言われた。この歌は面白い。そもそも米は地から生じるように見えるが、もとは天から降るのと同じだ。太陽が日々天から照らす温気が地に入り、その力で米穀は実る。春分に耕し始める頃から秋分に実るまでを、物差しのように図にして見よ。十日照れば十日分、一月照れば一月分、地に米穀となるべき温気が入っている。だから仮にその間に雨や冷気があっても、それまでに照り込んでいる分は実る。それでも人が力を尽くさなければ実りが少ないのは、耕し鋤き掻きの手間を多くかければ、太陽の温気が地に入ることも多くなるからだ。地上の万物で一つとして天日の恵みから漏れるものはない。海底の水草でさえ雨や冷気の多い年は繁茂しないという。そうであろう。この歌は歌人の詠むものとしては珍しい。