二宮翁夜話 / 巻之三
翁曰、衣は寒を凌ぎ、食は飢を凌ぐのみにてたれる物なり、其外は皆無用の事なり、官服は貴賤を分つ目印にて、男女の服は只粧ひのみ、婦女子の紅白粉と何ぞ異らむ、紅白粉なくとも婦人あれば、結婚に支へなし、飢を凌ぐ為の食、寒を凌ぐ為の衣は、智愚賢不肖を分たず、学者にても無学者にても、悟ても迷ても、離るゝ事は出来ぬ物なり、是を備ふる道こそ人道の大元、政道の本根なり、予が歌に「飯と汁木綿着物ぞ身を助く其余は我をせむるのみなり」と詠り、是我道の悟門なり、能々徹底すべし、予若年より食は飢を凌ぎ、衣は寒を凌で足れりとせり、只此覚悟一にして今日に及べり、我道を修行し施行せんと思ふ者は、先能此理を悟るべきなり
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、衣(ころも)は寒(かん)を凌(しの)ぎ、食は飢(うえ)を凌ぐのみにて足(た)れる物なり、其外(そのほか)は皆無用の事なり、官服(かんぷく)は貴賤(きせん)を分つ目印にて、男女の服(ふく)は只(ただ)粧(よそお)ひのみ、婦女子(ふじょし)の紅白粉(べにおしろい)と何ぞ異(こと)ならむ、紅白粉なくとも婦人あれば、結婚(けっこん)に支(つか)へなし、飢を凌ぐ為の食、寒を凌ぐ為の衣は、智愚(ちぐ)賢不肖(けんふしょう)を分たず、学者(がくしゃ)にても無学者にても、悟(さと)りても迷(まよ)ひても、離(はな)るる事は出来ぬ物なり、是(これ)を備(そな)ふる道こそ人道の大元(おおもと)、政道(せいどう)の本根(ほんこん)なり、予(よ)が歌に「飯と汁木綿着物(もめんぎもの)ぞ身を助く其余(そのよ)は我をせむるのみなり」と詠(よ)めり、是我道(わがみち)の悟門(ごもん)なり、能々(よくよく)徹底(てってい)すべし、予若年(じゃくねん)より食は飢を凌ぎ、衣は寒を凌ぎて足れりとせり、只此(この)覚悟(かくご)一にして今日に及べり、我道を修行し施行(せぎょう)せんと思ふ者は、先(ま)づ能(よ)く此理(このり)を悟るべきなり
現代語訳
翁が言われた。衣は寒さをしのぎ、食は飢えをしのぐ、それだけで十分な物である。それ以外はみな無用のことだ。官服は身分の上下を分ける目印にすぎず、男女の衣服はただの飾りにすぎない。女性の紅や白粉と何の違いがあろうか。紅白粉がなくても女性であれば、結婚に差し支えはない。飢えをしのぐための食、寒さをしのぐための衣は、賢い者も愚かな者も、学者でも無学の者でも、悟った者でも迷う者でも、誰一人これを離れて生きることはできない。これを備える道こそが人の道の根本であり、政治の根本である。私は歌に「飯と汁、木綿の着物こそが身を助ける。それ以外は自分を苦しめるだけだ」と詠んだ。これが私の道の悟りの入り口である。よくよく徹底すべきだ。私は若い頃から、食は飢えをしのぎ、衣は寒さをしのげば足りると考えてきた。ただこの覚悟一つで今日まで来たのだ。私の道を修め、実践しようと思う者は、まずよくこの道理を悟るべきである。