二宮翁夜話 / 巻之三
翁曰、某藩士某、東京詰にて、顕職を勤めたり、一朝退勤の命あり、帰国せんとす、予往て暇を告げ、且曰、卿が是迄の驕奢、実に意外の事なりといへども、職務なれば、是非無し、今帰国せんとす、是迄用ふる処の、衣類諸道具等は皆分不相応の品なり、是を持帰る時は、卿が驕奢退かず、妻子厄介も同く奢侈止らざるべし、然る時は卿が家、財政の為に滅亡に至らん、恐れざるべけんや、刀は折れず曲らざる利刀の、外飾なきを残し、其他は衣類諸道具、一切是迄用ひし物品は残らず、親戚朋友懇意出入の者等に、形見として悉く与へ、不断着寝巻の儘にて、只妻子而已を具して、帰国して、一品も国に持行事勿れ、是奢侈を退け、驕意を断つの秘伝也、然らざれば、妻子厄介迄染込んだる奢侈決して退かず、卿が家終に亡びん事鏡に掛て見るが如し、迷ふ勿れと懇々教えたれど、某用ふる事能はず、一品も残さず船に積みて持帰り、此物品を売り売り生活を立、終に売尽して、言可らざるの困窮に陥り果たり、歎ずべし、是分限を忘れ、驕奢に馴れて、天をも恐れず人をも憚らざるの過なり、我驕奢、誠に分に過ぎたりと心付ば、同藩に対しても、憚らずば有べからず、是驕奢に馴れて自驕奢としらざるが故なり、歎ずべし
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、某藩士某(それがし)、東京(えど)詰にて、顕職(けんしょく)を勤めたり、一朝(いっちょう)退勤の命あり、帰国せんとす、予(よ)往(ゆ)きて暇(いとま)を告げ、且(か)つ曰く、卿(けい)が是迄(これまで)の驕奢(きょうしゃ)、実に意外の事なりといへども、職務なれば、是非(ぜひ)無し、今帰国せんとす、是迄用ふる処の、衣類諸道具等は皆分不相応の品なり、是を持帰る時は、卿が驕奢退かず、妻子厄介(やっかい)も同じく奢侈(しゃし)止(や)まざるべし、然(しか)る時は卿が家、財政の為に滅亡に至らん、恐(おそ)れざるべけんや、刀は折れず曲(まが)らざる利刀(りとう)の、外飾(がいしょく)なきを残(のこ)し、其他は衣類諸道具、一切是迄用ひし物品は残らず、親戚(しんせき)朋友(ほうゆう)懇意(こんい)出入(でいり)の者等に、形見として悉(ことごと)く与(あた)へ、不断着(ふだんぎ)寝巻(ねまき)の儘(まま)にて、只(ただ)妻子而已(のみ)を具(ぐ)して、帰国して、一品も国に持行(もちゆ)く事勿(なか)れ、是奢侈を退(しりぞ)け、驕意(きょうい)を断(た)つの秘伝也、然らざれば、妻子厄介迄染(し)み込んだる奢侈決して退かず、卿が家終(つい)に亡びん事鏡(かがみ)に掛(か)けて見るが如し、迷ふ勿れと懇々(こんこん)教へたれど、某用ふる事能(あた)はず、一品も残さず船(ふね)に積(つ)みて持帰り、此物品を売り売り生活を立て、終(つい)に売尽(うりつく)して、言ふ可(べ)からざるの困窮に陥(おちい)り果てたり、歎(たん)ずべし、是分限(ぶげん)を忘れ、驕奢に馴(な)れて、天をも恐れず人をも憚(はばか)らざるの過(あやまち)なり、我驕奢、誠に分に過ぎたりと心付かば、同藩(どうはん)に対しても、憚らずば有るべからず、是驕奢に馴れて自(みずか)ら驕奢と知らざるが故なり、歎ずべし
現代語訳
翁が言われた。ある藩士が江戸詰めで要職を勤めていた。ある朝退任の命が下り、国元へ帰ろうとした。私は出向いて別れを告げ、こう言った。あなたのこれまでの贅沢ぶりは実に意外だったが、職務上のことだから仕方がない。さて今帰国しようとしているが、これまで使ってきた衣類や諸道具はみな身分不相応の品だ。これを持ち帰れば、あなたの贅沢は改まらず、妻子や家族の奢りも同じく止まらないだろう。そうなればあなたの家は財政のために滅びかねない。恐ろしくないだろうか。刀は折れず曲がらない切れる一振りで飾りのないものだけを残し、その他の衣類や諸道具、これまで使ってきた物品はすべて残らず、親戚・友人・懇意の者・出入りの者たちに形見としてことごとく与え、普段着や寝巻きのまま、ただ妻子だけを連れて帰国し、一品も国元へ持ち帰ってはならない。これが奢りを退け、驕った心を断つ秘訣だ。そうしなければ妻子家族にまで染み込んだ奢りは決して抜けず、あなたの家がついに滅びることは鏡に映すように明らかだ。迷うな、と懇々と教えた。ところがその藩士は実行できず、一品も残さず船に積んで持ち帰り、その品を次々に売って生活し、ついに売り尽くして言葉にできぬほどの困窮に陥り果てた。嘆かわしいことだ。これは分限を忘れ、贅沢に慣れて、天をも恐れず人をもはばからなかった過ちである。自分の贅沢がまことに分に過ぎていると気づけば、同じ藩の者に対してもはばかりを覚えずにはいられないはずだ。それができないのは、贅沢に慣れきって自分が贅沢だと気づかないからである。嘆かわしいことだ。