二宮翁夜話 / 巻之三
翁曰、富と貧とは、元遠く隔つ物にあらず、只少しの隔なり、其本源只一ッの心得にあり、貧者は昨日の為に今日勤め、昨年の為に今年勤む、故に終身苦んで其功なし、富者は明日の為に今日勤め、来年の為に今年勤め、安楽自在にして、成す事成就せずと云事なし、然るを世の人、今日飲む酒無き時は、借りて飲み、今日食ふ米なき時は、又借りて食ふ、是貧窮すべき元因なり、今日薪を取て、明朝飯を炊き、今夜繩を索ふて、明日籬を結ばゞ、安心にして、差支へなし、然るを貧者の仕方は、明日取る薪にて、今夕の飯を炊んとし、明夜索ふ繩を以て、今日籬を結ばんとするが如し、故に苦んで功成らず、故に予常に曰、貧者草を刈らんとする時、鎌なし、之を隣に借りて、草を刈る常の事なり、是貧窮を免るゝ事能はざるの元因なり、鎌なくば先日雇取りを為すべし、此賃銭を以て、鎌を買ひ求め、然る後に草を刈るべし、此道は則開闢元始の大道に基く物なるが故に、卑怯卑劣の心なし、是神代の古、豊芦原に天降りし時の、神の御心なり、故に此心ある者は、富貴を得、此心無き者は、富貴を得る事能はず
新字:翁曰、富と貧とは、元遠く隔つ物にあらず、只少しの隔なり、其本源只一ッの心得にあり、貧者は昨日の為に今日勤め、昨年の為に今年勤む、故に終身苦んで其功なし、富者は明日の為に今日勤め、来年の為に今年勤め、安楽自在にして、成す事成就せずと云事なし、然るを世の人、今日飲む酒無き時は、借りて飲み、今日食ふ米なき時は、又借りて食ふ、是貧窮すべき元因なり、今日薪を取て、明朝飯を炊き、今夜縄を索ふて、明日籬を結ばゞ、安心にして、差支へなし、然るを貧者の仕方は、明日取る薪にて、今夕の飯を炊んとし、明夜索ふ縄を以て、今日籬を結ばんとするが如し、故に苦んで功成らず、故に予常に曰、貧者草を刈らんとする時、鎌なし、之を隣に借りて、草を刈る常の事なり、是貧窮を免るゝ事能はざるの元因なり、鎌なくば先日雇取りを為すべし、此賃銭を以て、鎌を買ひ求め、然る後に草を刈るべし、此道は則開闢元始の大道に基く物なるが故に、卑怯卑劣の心なし、是神代の古、豊芦原に天降りし時の、神の御心なり、故に此心ある者は、富貴を得、此心無き者は、富貴を得る事能はず
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、富と貧とは、元(もと)遠(とお)く隔(へだ)つ物にあらず、只(ただ)少しの隔(へだたり)なり、其本源(ほんげん)只一つの心得(こころえ)にあり、貧者は昨日の為に今日勤め、昨年の為に今年勤む、故に終身(しゅうしん)苦(くる)しんで其功なし、富者は明日の為に今日勤め、来年の為に今年勤め、安楽自在(あんらくじざい)にして、成す事成就(じょうじゅ)せずと云ふ事なし、然(しか)るを世の人、今日飲む酒無き時は、借りて飲み、今日食ふ米なき時は、又借りて食ふ、是(これ)貧窮(ひんきゅう)すべき元因(もといん)なり、今日薪(たきぎ)を取りて、明朝(みょうちょう)飯(めし)を炊(た)き、今夜繩(なわ)を索(な)ふて、明日籬(まがき)を結(むす)ばば、安心にして、差支(さしつか)へなし、然るを貧者の仕方は、明日取る薪にて、今夕(こんせき)の飯を炊かんとし、明夜索ふ繩を以て、今日籬を結ばんとするが如し、故に苦しんで功成らず、故に予(よ)常に曰く、貧者草を刈らんとする時、鎌(かま)なし、之を隣(となり)に借りて、草を刈る常の事なり、是貧窮を免(まぬか)るる事能(あた)はざるの元因なり、鎌なくば先(ま)づ日雇取(ひやといと)りを為すべし、此賃銭(ちんせん)を以て、鎌を買ひ求(もと)め、然る後に草を刈るべし、此道は則(すなわ)ち開闢元始(かいびゃくげんし)の大道に基(もとづ)く物なるが故に、卑怯(ひきょう)卑劣(ひれつ)の心なし、是神代(かみよ)の古(いにしえ)、豊芦原(とよあしはら)に天降(あまくだ)りし時の、神の御心(みこころ)なり、故に此心ある者は、富貴(ふうき)を得、此心無き者は、富貴を得る事能はず
現代語訳
翁が言われた。富と貧とは、もともと遠く隔たったものではなく、ほんのわずかな差である。その根源はただ一つの心がけにある。貧しい者は昨日のために今日働き、昨年のために今年働く。だから一生苦しんでも成果がない。富む者は明日のために今日働き、来年のために今年働くので、安楽で思いのままであり、なす事が成就しないということがない。ところが世の人は、今日飲む酒が無ければ借りて飲み、今日食う米が無ければまた借りて食う。これが貧窮する原因である。今日薪を取って明朝の飯を炊き、今夜縄をなって明日の垣根を結ぶようにすれば、安心で差し支えない。ところが貧者のやり方は、明日取る薪で今夕の飯を炊こうとし、明夜なう縄で今日の垣根を結ぼうとするようなものだ。だから苦しんでも成果が出ない。だから私はいつも言う。貧者は草を刈ろうとしても鎌がなく、それを隣に借りて草を刈るのが常だ。これが貧窮を免れられない原因である。鎌がなければ、まず日雇い仕事をせよ。その賃金で鎌を買い求め、それから草を刈るべきだ。この道は天地開闢の始めの大道に基づくものだから、卑怯卑劣な心がない。これは神代の昔、豊葦原に天降った時の神の御心である。だからこの心のある者は富貴を得、この心のない者は富貴を得ることができない。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・緒方の塾風・自身自力の研究(1)扨その写本の物理書、医書の会読を如何するかと云うに、講釈の為人もなければ読んで聞かして呉れる人もない。内証で教えることも聞くことも書生間の恥辱として、万々一も之を犯す者はない。唯自分一人で以てそれを読砕かなければならぬ。読砕くには文典を土台にして辞書に便る外に道はない。その辞書と云うものは、此処にヅーフと云う写本の字引が塾に一部ある。是れは中々大部なもので、日本の紙で凡そ三千枚ある。之を一部拵えると云うことは中々大きな騒ぎで容易に出来たものではない。是れは昔長崎の出島に在留して居た和蘭のドクトル・ヅーフと云う人が、ハルマと云う独逸和蘭対訳の原書の字引を飜訳したもので、蘭学社会唯一の宝書と崇められ、夫れを日本人が伝写して、緒方の塾中にもたった一部しかないから、三人も四人もヅーフの周囲に寄合て見て居た。夫れからモウ一歩立上るとウエーランドと云う和蘭の原書の字引が一部ある。それは六冊物で和蘭の註が入れてある。ヅーフで分らなければウエーランドを見る。所が初学の間はウエーランドを見ても分る気遣はない。夫ゆえ便る所は只ヅーフのみ。会読は一六とか三八とか大抵日が極って居て、いよ/\明日が会読だと云うその晩は、如何な懶惰生でも大抵寝ることはない。ヅーフ部屋と云う字引のある部屋に、五人も十人も群をなして無言で字引を引つゝ勉強して居る。夫れから翌朝の会読になる。会読をするにも籤で以て此処から此処までは誰と極めてする。会頭は勿論原書を持て居るので、五人なら五人、十人なら十人、自分に割当てられた所を順々に講じて、若しその者が出来なければ次に廻す。又その人も出来なければその次に廻す。その中で解し得た者は白玉、解し傷うた者は黒玉、夫れから自分の読む領分を一寸でも滞りなく立派に読んで了ったと云う者は白い三角を付ける。是れは只の丸玉の三倍ぐらい優等な印で、凡そ塾中の等級は七、八級位に分けてあった。而して毎級第一番の上席を三ヶ月占て居れば登級すると云う規則で、会読以外の書なれば、先進生が後進生に講釈もして聞かせ不審も聞て遣り至極深切にして兄弟のようにあるけれども、会読の一段になっては全く当人の自力に任せて構う者がないから、塾生は毎月六度ずつ試験に逢うようなものだ。爾う云う訳けで次第々々に昇級すれば、殆んど塾中の原書を読尽して云わば手を空うするような事になる、その時には何か六かしいものはないかと云うので、実用もない原書の緒言とか序文とか云うような者を集めて、最上等の塾生だけで会読をしたり、又は先生に講義を願たこともある。私などは即ちその講義聴聞者の一人でありしが、之を聴聞する中にも様々先生の説を聞て、その緻密なることその放胆なること実に蘭学界の一大家、名実共に違わぬ大人物であると感心したことは毎度の事で、講義終り、塾に帰て朋友相互に、「今日の先生の彼の卓説は如何だい。何だか吾々は頓に無学無識になったようだなどゝ話したのは今に覚えて居ます。

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