二宮翁夜話 / 巻之三
或問、地獄極楽と云物実にありや、翁曰、仏者はありといへども、取出して人に示す事は出来ず、儒者はなしといへども、又往て見きはめたるにはあらず、ありと云もなしと云も、共に空論のみ、然といへ共、人の死後に生前の果報はなくて、叶はざる道理也、儒者のなしと云は、三世を説ざるに依る、仏は三世を説く也、一つは説ず一ッは説くも、三世は必あり、されば地獄極楽なしと云べからず、見る事ならざればとて、なしと極むべからず、扨地獄極楽はありといへ共、念仏宗にては、念仏を唱ふる者は極楽へゆき、唱へざる者は地獄へおつと、法華宗にては、妙法を唱ふる者は浮み、唱へざる者は沈むと、又甚しきは寺へ金穀を納る者は極楽へゆき、納めざる者は地獄におつと、斯の如き道理は決してあるべからず、夫元地獄は悪事をなしたる者の、死してやらるゝ処、極楽は善事をなしたる者の、死してゆく処なる事疑ひなし、夫地獄極楽は勧善懲悪の為にある物にして、宗旨の信不信の為にある物にあらざる事明らか也、迷ふべからず疑ふべからず
書き下し
或(ある)ひと問ふ、地獄(じごく)極楽(ごくらく)と云ふ物実(じつ)にありや、翁(おきな)曰(いわ)く、仏者(ぶっしゃ)はありといへども、取出(とりいだ)して人に示(しめ)す事は出来ず、儒者(じゅしゃ)はなしといへども、又往(ゆ)きて見きはめたるにはあらず、ありと云ふもなしと云ふも、共に空論(くうろん)のみ、然(しか)りといへ共(ども)、人の死後に生前の果報(かほう)はなくて、叶(かな)はざる道理也、儒者のなしと云ふは、三世(さんぜ)を説かざるに依(よ)る、仏は三世を説く也、一つは説かず一つは説くも、三世は必ずあり、されば地獄極楽なしと云ふべからず、見る事ならざればとて、なしと極(きわ)むべからず、扨(さて)地獄極楽はありといへ共、念仏宗(ねんぶつしゅう)にては、念仏を唱(とな)ふる者は極楽へゆき、唱へざる者は地獄へおつと、法華宗(ほっけしゅう)にては、妙法を唱ふる者は浮(うか)み、唱へざる者は沈(しず)むと、又甚(はなは)だしきは寺へ金穀(きんこく)を納(おさ)むる者は極楽へゆき、納めざる者は地獄におつと、斯(か)くの如き道理は決(けっ)してあるべからず、夫(そ)れ元(もと)地獄は悪事をなしたる者の、死してやらるる処、極楽は善事をなしたる者の、死してゆく処なる事疑ひなし、夫れ地獄極楽は勧善懲悪(かんぜんちょうあく)の為にある物にして、宗旨(しゅうし)の信不信の為にある物にあらざる事明らか也、迷ふべからず疑ふべからず
現代語訳
ある人が尋ねた。地獄極楽というものは本当に有るのですか、と。翁が言われた。仏教者は有ると言うが、それを取り出して人に見せることはできない。儒者は無いと言うが、実際に行って見きわめたわけでもない。有ると言うのも無いと言うのも、どちらも空論にすぎない。とはいえ、人の死後に生前の行いへの報いが何もない、というのも道理に合わない。儒者が無いと言うのは前世・現世・来世の三世を説かないからで、仏教は三世を説く。一方は説かず一方は説くが、三世は必ず有る。だから地獄極楽は無いとは言えない。目に見えないからといって無いと決めつけてはならない。さて地獄極楽は有るとしても、念仏宗では念仏を唱える者は極楽へ行き唱えない者は地獄に落ちるといい、法華宗では妙法を唱える者は浮かび唱えない者は沈むという。さらにひどいのになると、寺に金や穀物を納めた者は極楽へ行き納めない者は地獄に落ちるという。こんな道理は決してあってはならない。そもそも地獄は悪事をなした者が死んで送られる所、極楽は善事をなした者が死んで行く所であることは疑いない。地獄極楽は善を勧め悪を懲らすためにある物であって、宗派を信じるか信じないかのためにある物ではないことは明らかだ。迷ってはならない、疑ってはならない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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葉隠・聞書第二惡事の引合ひは貪瞋痴、吉事の引合ひは智仁勇に洩れず、よく撰り分けたるものなり。世上の惡事出來たる時、引合ひて見るに、貪瞋痴と、吉事を引合ひて見るに、智仁勇に洩れずとなり。
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論語 里仁篇子曰、苟志於仁矣、無惡也。
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二宮翁夜話・巻之三翁曰、儒に、至善に止るとあり、仏に、諸善奉行と云り、然れども其善と云物、如何なる物ぞと云ふ事、慥ならぬ故に、人々善を為す積りにて、其為す処皆違へり、夫元善悪は一円也、盗人仲間にては、能盗むを善とし、人を害しても盗みさへすれば善とするなるべし、然に、世法は盗を大悪とす、其懸隔此の如し、而て天に善悪あらず、善悪は、人道にて立たる物なり、譬ば草木の如き、何ぞ善悪あらんや、此人体よりして、米を善とし、莠を悪とす、食物になると、ならざるとを以てなり、天地何ぞ此別ちあらん、夫莠草は、生るも早く茂るも早し、天地生々の道に随ふ事、速なれば、是を善草と云も不可なかるべし、米麦の如き、人力を借りて生ずる物は、天地生々の道に随ふ事、甚迂闊なれば、悪草と云も不可なかるべし、然るに只食ふべきと、食ふ可からざるとを以て、善悪を分つは、人体より出たる、癖道にあらずして何ぞ、此理を知らずばあるべからず、夫上下貴賤は勿論、貸す者と借る者と、売る人と買ふ人と、又人を遣ふ者、人に遣はるゝ者に引当て、能々思考すべし、世の中万般の事皆同じ、彼に善なれば是に悪しく、是に悪きは彼によし、生を殺して喰ふ者はよかるべけれど、喰はるゝ物には甚悪し、然といへ共、既に人体あり、生物を喰はざれば、生を遂る事能はざるを如何せん、米麦蔬菜といへ共、皆生物にあらずや、予此理を尽し「見渡せば遠き近きは無かりけり己々が住処にぞある」と詠るなり、され共、是は其理を云るのみ、夫人は米食ひ虫なり、此米食虫の仲間にて、立たる道は、衣食住になるべき物を、増殖するを善とし、此三ッの物を、損害するを悪と定む、人道にて云処の善悪は、是を定規とする也、此に基きて、諸般人の為に便利なるを善とし、不便利なるを悪と立し物なれば、天道とは格別なる事論を待ず、然といへども、天道に違ふにはあらず、天道に順ひつゝ違ふ処ある道理を知らしむるのみ
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二宮翁夜話・巻之一翁曰く、夫れ世界は旋転してやまず、寒往けば暑来り、暑往けば寒来り、夜明くれば昼となり、昼になれば夜となり、又万物生ずれば滅し、滅すれば生ず。譬へば銭を遣れば品が来り、品を遣れば銭が来るに同じ。寝ても醒めても、居ても歩行ても、昨日は今日になり今日は明日になる。田畑も海山も皆その通り。爰にて薪をたきへらすほどは、山林にて生木し、爰で喰へらす丈の穀物は、田畑にて生育す。野菜にても魚類にても、世の中にて減るほどは、田畑河海山林にて生育し、生れたる子は、時々刻々年がより、築たる堤は時々刻々に崩れ、掘たる堀は日々夜々に埋り、葺たる屋根は日々夜々に腐る。是即ち天理の常なり。然るに人道は、是と異なり。如何となれば、風雨定めなく、寒暑往来する此世界に、毛羽なく鱗介なく、裸体にて生れ出で、家がなければ雨露が凌がれず、衣服がなければ寒暑が凌がれず。爰に於て、人道と云ふ物を立て、米を善とし、莠を悪とし、家を造るを善とし、破るを悪とす。皆人の為に立てたる道なり。依て人道と云ふ。天理より見る時は善悪はなし。其証には、天理に任する時は、皆荒地となりて、開闢のむかしに帰るなり。如何となれば、是則ち天理自然の道なれば也。夫れ天に善悪なし、故に稲と莠とを分たず、種ある者は皆生育せしめ、生気ある者は皆発生せしむ。人道はその天理に順ふといへども、其内に各区別をなし、稗莠を悪とし、米麦を善とするが如き、皆人身に便利なるを善とし、不便なるを悪となす。爰に到ては天理と異なり。如何となれば、人道は人の立つる処なれば也。人道は譬ば料理物の如く、三倍酢の如く、歴代の聖主賢臣料理し塩梅して拵らへたる物なり。されば、ともすれば破れんとす。故に政を立て、教を立て、刑法を定め、礼法を制し、やかましくうるさく、世話をやきて、漸く人道は立つなり。然るを天理自然の道と思ふは、大なる誤なり。能く思ふべし。
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呂氏春秋・振亂③夫攻伐之事,未有不攻無道而罰不義也。攻無道而伐不義,則福莫大焉,黔首利莫厚焉。禁之者,是息有道而伐有義也,是窮湯、武之事而遂桀、紂之過也。凡人之所以惡為無道不義者,為其罰也;所以蘄〔為〕有道行(有)義者,為其賞也。今無道不義存,存者賞之也;而有道行義窮,窮者罰之也。賞不善而罰善,欲民之治也,不亦難乎?故亂天下害黔首者,若論為大。