二宮翁夜話 / 巻之二
翁曰、仏教に極楽世界の事を説きて、赤色には赤光有り、青色には青光ありと云り、極楽といへ共珍らしき事あるにあらず、人皆銘々己が家株田畑は、己に作徳あり、己が商売職業は、己に利益あり、己が家屋敷は、己が安宅となり、己が家財は、己が身の用便になり、己が親兄弟は、己が身に親しく、己が妻子は、己が身に楽しく、又田畑は美しく米麦百穀を産出し、山林は繁茂して良材を出す、是を赤色には赤光あり、青色には青光ありといふなり、此の如くなれば、此土則極楽なり、此極楽を得るの道、各受得たる天禄の分内を守るにあり、若一度天禄の分度を失はゞ、己が家株田畑己が作徳にならず、己が商売己が職業己が利益にならず、己が安住すべき家屋敷己が安宅にならず、己が家財己が身の用便にならず、己が妻子親族も己に楽しからず、又田畑は荒れて米麦を生ぜず、山林は藤蔦にまとはれ野火に焼けて材木を出さず、是を赤色には赤光なし、青色には青光なしといふ、苦患是より大なるはなし、則所謂地獄なり、餓鬼界に落るものは、飢て喰はんとすれば食忽に火となり、渇して飲んとすれば水直に火となると云り、是則人々天より賜はり、父祖より請伝へたる天禄を利足に取られ賄賂に費し、己が衣食の足らざるは、何ぞ是に異らん、是苦患の極にあらずや、夫我仕法は経を読ず念仏も題目も唱へずして、此苦罪を消滅せしめて極楽を得させ、青色をして青色あらしめ、赤色をして赤色あらしむるの大道なり。
書き下し
翁曰(いわ)く、仏教に極楽世界の事を説きて、赤色には赤光有り、青色には青光ありと云へり、極楽といへ共珍(めず)らしき事あるにあらず、人皆銘々己(おの)が家株田畑は、己に作徳あり、己が商売職業は、己に利益あり、己が家屋敷は、己が安宅となり、己が家財は、己が身の用便になり、己が親兄弟は、己が身に親(した)しく、己が妻子は、己が身に楽しく、又田畑は美(うるわ)しく米麦百穀を産出し、山林は繁茂して良材を出す、是を赤色には赤光あり、青色には青光ありといふなり、此の如くなれば、此の土則(すなわ)ち極楽なり、此の極楽を得るの道、各(おのおの)受け得たる天禄の分内を守るにあり、若(も)し一度天禄の分度を失はば、己が家株田畑己が作徳にならず、己が商売己が職業己が利益にならず、己が安住すべき家屋敷己が安宅にならず、己が家財己が身の用便にならず、己が妻子親族も己に楽しからず、又田畑は荒れて米麦を生ぜず、山林は藤蔦(ふじつた)にまとはれ野火に焼けて材木を出さず、是を赤色には赤光なし、青色には青光なしといふ、苦患(くかん)是より大なるはなし、則ち所謂(いわゆる)地獄なり、餓鬼界に落つるものは、飢(う)ゑて喰(くら)はんとすれば食忽(たちま)ちに火となり、渇して飲まんとすれば水直(ただ)ちに火となると云へり、是れ則ち人々天より賜(たまわ)り、父祖より請伝(うけつた)へたる天禄を利足に取られ賄賂(わいろ)に費(つい)やし、己が衣食の足らざるは、何ぞ是に異(ことな)らん、是れ苦患の極(きょく)にあらずや、夫(そ)れ我が仕法は経を読まず念仏も題目も唱へずして、此の苦罪を消滅せしめて極楽を得させ、青色をして青色あらしめ、赤色をして赤色あらしむるの大道なり。
現代語訳
翁が言われた。仏教では極楽世界のことを説いて「赤色には赤光あり、青色には青光あり(それぞれが本来の輝きを放つ)」という。極楽といっても珍しいことがあるわけではない。人はみなそれぞれ、自分の家産や田畑からは自分に収穫があり、自分の商売や職業からは自分に利益があり、自分の家屋敷は自分の安らかな住まいとなり、自分の家財は自分の役に立ち、自分の親兄弟は自分に親しく、自分の妻子は自分に楽しく、また田畑は美しく米麦百穀を実らせ、山林は茂って良材を出す。これを「赤色には赤光あり、青色には青光あり」というのだ。こうであれば、この地上こそが極楽である。この極楽を得る道は、各人が授かった天の分限(天禄の分内)を守ることにある。もし一度その天の分度を失えば、家産も田畑も自分の益にならず、商売も職業も利益にならず、住むべき家屋敷も安らぎの家とならず、家財も役に立たず、妻子親族も自分に楽しくなく、田畑は荒れて米麦を生ぜず、山林は藤や蔦にからまれ野火に焼けて材木を出さない。これを「赤色には赤光なし、青色には青光なし」という。これほど大きな苦しみはない。すなわちいわゆる地獄である。餓鬼界に落ちる者は、飢えて食べようとすれば食物がたちまち火となり、渇いて飲もうとすれば水がすぐに火となるという。これはまさに、人々が天から授かり父祖から受け継いだ天禄を利息に取られ賄賂に費やして、自分の衣食が足りなくなることと、どこが違おうか。これこそ苦しみの極みではないか。そもそも私の仕法は、経を読まず念仏も題目も唱えずして、この苦しみと罪を消し去って極楽を得させ、青色を青色らしく、赤色を赤色らしく輝かせる大道なのである。