葉隠 / 聞書第二
惡事の引合ひは貪瞋痴、吉事の引合ひは智仁勇に洩れず、よく撰り分けたるものなり。世上の惡事出來たる時、引合ひて見るに、貪瞋痴と、吉事を引合ひて見るに、智仁勇に洩れずとなり。
新字:悪事の引合ひは貪瞋痴、吉事の引合ひは智仁勇に洩れず、よく撰り分けたるものなり。世上の悪事出来たる時、引合ひて見るに、貪瞋痴と、吉事を引合ひて見るに、智仁勇に洩れずとなり。
書き下し
悪事の引合いは貪瞋痴(とんじんち)、吉事の引合いは智仁勇(ちじんゆう)に洩れず、よく撰(え)り分けたるものなり。世上の悪事出来たる時、引合いて見るに、貪瞋痴と、吉事を引合いて見るに、智仁勇に洩れずとなり。
現代語訳
悪事を照らし合わせてみれば貪り・怒り・愚かさ(貪瞋痴)に、善事を照らし合わせてみれば智・仁・勇に、いずれも漏れなく当てはまる。よくできた分類である。世間で悪事が起こったとき照らし合わせると必ず貪瞋痴であり、善事を照らし合わせると必ず智・仁・勇に収まる、というのである。
解説
善悪の根を、仏教と儒教の徳目で腑分けした条です。核心は、あらゆる悪事は「貪瞋痴」(むさぼり・いかり・おろかさ)という仏教の三毒に、あらゆる善事は「智・仁・勇」という徳に、漏れなく分類できるという洞察にあります。物事の善し悪しを場当たり的に判断するのではなく、その根にある心の動きまで遡って見極めよ、という教えです。悪い行いの裏には必ず欲や怒りや無知があり、善い行いの裏には知恵や思いやりや勇気がある。この物差しを持てば、自分や他人の行動を冷静に振り返る手がかりになります。現代でも、失敗や過ちの原因を「なぜそうしたのか」と心の根まで掘り下げて考える、自己点検のフレームワークとして活用できる知恵です。
この章句が説くこと
葉隠善悪貪瞋痴智仁勇三毒自己点検
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