二宮翁夜話 / 巻之三
翁又曰、世人口には貧富驕倹を唱ふるといへども、何を貧と云ひ何を富と云ひ、何を驕と云ひ何を倹と云ふ、理を詳にせず。天下固より大も限なし小も限なし。十石を貧と云へば無禄の者あり、十石を富といへば百石のものあり、百石を貧といへば五十石の者あり、百石を富といへば千石万石あり。千石を大と思へば世人小旗本といふ、万石を大と思へば世人小大名といふ。然らば何を認めて貧富大小を論ぜん。譬ば売買の如し。物と価とを較べてこそ下直高直を論ずべけれ、物のみにして高下を言ふべからず、価のみにて又高下を論ずべからざるが如し。是れ世人の惑ふ処なれば、今是を詳に云ふべし。曰く千石の村戸数一百、一戸十石に当る、是れ自然の数なり。是を貧にあらず富にあらず、大にあらず小にあらず、不偏不倚の中と云ふべし。此中に足らざるを貧と云ひ、此中を越るを富と云ふ。此十石の家九石にて経営むを是を倹といひ、十一石にて暮すを是を驕奢と云ふ。故に予常に曰く、中は増減の源、大小両名の生ずる処なりと。されば貧富は一村一村の石高平均度を以て定め、驕倹は一己一己の分限を以て論ずべし。其分限に依ては、朝夕膏粱に飽き錦繡を纏ふも玉堂に起臥するも奢にあらず、分限に依ては米飯も奢なり、茶も烟草も奢なり。謾りに驕倹を論ずる事勿れ。
書き下し
翁又曰く、世人口には貧富(ひんぷ)驕倹(きょうけん)を唱ふるといへども、何を貧と云ひ何を富と云ひ、何を驕(きょう)と云ひ何を倹(けん)と云ふ、理を詳(つまびら)かにせず。天下固(もと)より大も限なし小も限なし。十石を貧と云へば無禄(むろく)の者あり、十石を富といへば百石のものあり、百石を貧といへば五十石の者あり、百石を富といへば千石万石あり。千石を大と思へば世人小旗本(こはたもと)といふ、万石を大と思へば世人小大名といふ。然らば何を認(みと)めて貧富大小を論ぜん。譬(たと)へば売買の如し。物と価(あたい)とを較(くら)べてこそ下直高直(げじきこうじき)を論ずべけれ、物のみにして高下を言ふべからず、価のみにて又高下を論ずべからざるが如し。是れ世人の惑ふ処なれば、今是を詳かに云ふべし。曰く千石の村戸数一百、一戸十石に当る、是れ自然の数なり。是を貧にあらず富にあらず、大にあらず小にあらず、不偏不倚(ふへんふい)の中と云ふべし。此中に足らざるを貧と云ひ、此中を越(こゆ)るを富と云ふ。此十石の家九石にて経営(いとな)むを是を倹といひ、十一石にて暮すを是を驕奢(きょうしゃ)と云ふ。故に予常に曰く、中は増減の源、大小両名の生ずる処なりと。されば貧富は一村一村の石高平均度(へいきんど)を以て定め、驕倹は一己一己の分限を以て論ずべし。其分限に依ては、朝夕膏粱(こうりょう)に飽き錦繡(きんしゅう)を纏(まと)ふも玉堂(ぎょくどう)に起臥(きが)するも奢(おごり)にあらず、分限に依ては米飯も奢なり、茶も烟草(たばこ)も奢なり。謾(みだ)りに驕倹を論ずる事勿れ。
現代語訳
翁がまた言われた。世間の人は口では貧富や驕倹(おごりと倹約)を論じるが、何を貧といい何を富といい、何を驕といい何を倹というのか、その筋道をはっきりさせていない。世の中はもともと大にも小にも限りがない。十石を貧といえば無禄の者がおり、十石を富といえば百石の者がおり、百石を貧といえば五十石の者がおり、百石を富といえば千石万石がある。千石を大と思っても世間は小旗本と呼び、万石を大と思っても小大名と呼ぶ。ならば何を基準に貧富大小を論じられよう。たとえば売買のようなものだ。品物と値段を比べてこそ安い高いを論じられるので、品物だけ、値段だけで高い安いは言えない。これが世間の迷うところだから、今はっきり説こう。千石の村に戸数百なら一戸十石が自然の数だ。これを貧でも富でも、大でも小でもない、どちらにも偏らない「中」というべきだ。この中に足りないのを貧、超えるのを富という。この十石の家が九石で暮らせば倹、十一石で暮らせば驕奢という。だから私はいつも、中は増減の源、大小という二つの名の生まれる所だと言う。だから貧富は村ごとの石高の平均で定め、驕倹は一人ひとりの分限で論じるべきだ。その分限によっては、朝夕ごちそうに飽き錦の衣を着て立派な家に暮らしても奢りではなく、分限によっては米の飯も奢り、茶も煙草も奢りとなる。むやみに驕倹を論じてはならない。