二宮翁夜話 / 巻之三
翁曰、仏者も釈迦が有難く思はれ、儒者も孔子が尊く見ゆる内は、能く修行すべし。其の地位に至る時は、国家を利益し、世を救ふの外に道なく、世の中に益ある事を勤むるの外に道なし。譬へば山に登るが如し。山の高く見ゆる内は勤めて登るべし。登り詰むれば外に高き山なく、四方共に眼下なるが如し。此の場に至りて、仰ぎて弥々高きは只天のみなり。此処まで登るを修行と云ふ。天の外に高き物ありと見ゆる内は勤めて登るべし学ぶべし。
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、仏者(ぶっしゃ)も釈迦(しゃか)が有難(ありがた)く思はれ、儒者(じゅしゃ)も孔子が尊(たっと)く見ゆる内は、能く修行すべし。其の地位に至る時は、国家を利益(りやく)し、世を救(すく)ふの外(ほか)に道なく、世の中に益ある事を勤(つと)むるの外に道なし。譬(たと)へば山に登(のぼ)るが如し。山の高く見ゆる内は勤めて登るべし。登り詰(つ)むれば外に高き山なく、四方共に眼下(がんか)なるが如し。此の場(ば)に至りて、仰(あお)ぎて弥々(いよいよ)高きは只(ただ)天のみなり。此処(ここ)まで登るを修行と云ふ。天の外に高き物ありと見ゆる内は勤めて登るべし学ぶべし。
現代語訳
翁(二宮尊徳)が言われた。仏者も釈迦がありがたく思われ、儒者も孔子が尊く見えるうちは、しっかり修行すべきである。その境地に達したときには、国家を利し世を救うほかに道はなく、世の中のためになることに励むほかに道はない。たとえば山に登るようなものだ。山が高く見えるうちは努めて登るがよい。登りつめれば、それより高い山はなく、四方がすべて眼下に見える。この境地に至って、仰いでなお高いのはただ天だけである。ここまで登ることを修行という。天のほかに高いものがあると見えるうちは、努めて登り、学ぶべきである。
解説
修行の到達点を、山登りにたとえて説いた一条です。釈迦や孔子を仰ぎ見て「まだ高い」と感じるうちは懸命に登れ、と尊徳は励まします。そして頂に至れば、もはや高い山はなく、なすべきは国家を利し世を救うこと――万人への実践的な貢献だけだといいます。学問や信仰は自分の高みのためではなく、世のために尽くす行いへと結実してこそ完成するのです。ここには、報徳思想が説く推譲、すなわち自らの徳や成果を世に譲り還す精神が貫かれています。到達すべきは知識の高さではなく世の中への益であり、なお仰ぐべき「天」を持ち続ける限り学びは終わらない。向上と貢献を一つに結ぶ教えです。
この章句が説くこと
二宮翁夜話報徳修行推譲世を救う向上心
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