二宮翁夜話 / 巻之三
翁又曰、爰に物あり、売らんと思ふ時は、飾らざるを得ず、譬ば芋大根の如きも、売らんと欲すれば、根を洗ひ枯葉を去り、田甫にある時とは其様を異にす、是売らんと欲する故なり、卿等此道を学ぶとも、此道を以て、世に用ひられ、立身せんと思ふ事なかれ、世に用ひられん事を願ひ、立身出世を願ふ時は、本意に違ひ本体を失ふに至り、夫が為に愆つ者既に数名あり、卿等が知る所なり、只能此道を学び得て、自ら能勤れば、富貴は天より来るなり、決して他に求る事勿れ、偖古語に、富貴天にあり、と云へるを、誤解して、寝て居ても富貴が天より来る物と思ふ者あり、大なる心得違ひなり、富貴天に有りとは、己が所行天理に叶ふ時は、求ずして富貴の来るを云なり、誤解する事勿れ、天理に叶ふとは、一刻も間断なく、天道の循環するが如く、日月の運動するが如く勤めて息ざるを云なり。
書き下し
翁又曰(いわ)く、爰(ここ)に物あり、売(う)らんと思ふ時は、飾(かざ)らざるを得ず。譬(たと)へば芋大根の如きも、売らんと欲すれば、根を洗ひ枯葉を去り、田甫(でんぽ)にある時とは其の様(さま)を異にす、是(これ)売らんと欲する故なり。卿(けい)等此の道を学ぶとも、此の道を以て、世に用ひられ、立身せんと思ふ事なかれ。世に用ひられん事を願ひ、立身出世を願ふ時は、本意に違(たが)ひ本体を失ふに至り、夫(それ)が為に愆(あやま)つ者既に数名あり、卿等が知る所なり。只能(よ)く此の道を学び得て、自(みずか)ら能く勤むれば、富貴は天より来るなり、決して他に求むる事勿(なか)れ。偖(さて)古語に、富貴天にあり、と云へるを、誤解して、寝て居ても富貴が天より来る物と思ふ者あり、大なる心得違ひなり。富貴天に有りとは、己が所行天理に叶ふ時は、求めずして富貴の来るを云ふなり、誤解する事勿れ。天理に叶ふとは、一刻も間断なく、天道の循環するが如く、日月の運動するが如く勤めて息(や)まざるを云ふなり。
現代語訳
翁がまた言われた。ここに物がある。売ろうと思う時は、飾らずにはいられない。たとえば芋や大根でも、売ろうとすれば根を洗い枯葉を取り去り、畑にある時とはその様子を変える。これは売ろうとするからだ。諸君はこの道を学んでも、この道によって世に用いられ、立身しようなどと思ってはならない。世に用いられることを願い、立身出世を願う時は、本意に反し本体を失うことになり、そのために身を誤った者がすでに数名いる。諸君も知っているとおりだ。ただよくこの道を学び得て、自分でよく勤めれば、富貴は天からやってくる。決して他に求めてはならない。さて古語に「富貴は天にあり」とあるのを誤解して、寝ていても富貴が天から来るものと思う者がいる。大きな心得違いだ。「富貴は天にあり」とは、自分の行いが天理に叶う時は、求めずとも富貴が来ることを言うのだ。誤解してはならない。天理に叶うとは、一刻も途切れることなく、天道が循環するように、日月が運行するように、勤めてやまないことを言うのである。
解説
この章句が説くこと
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二宮翁夜話・続篇翁(おきな)曰(いわ)く、本来東西無し、また過不及(かふきゅう)無しなど云ふは、平(たいら)なる器を見て云ふ語なり、則(すなわ)ち本然(ほんぜん)の天理なり。既に一器あり、之に己(おのれ)あれば傾かざるを得ず、傾く時は其(そ)の器の中の水必ず前後左右に増減す、之を世に某(それがし)は厚運(こううん)、某は薄運(はくうん)などゝ云ふなり、是某と云ふ己がある故なり。己なき時は東西も無く遠近も無く、過不及もなし、是本然の天理なり。古語に「天運循環して往(ゆ)きて復(かえ)らざるなし」と云へり、是傾きたる器の水の増減するを云ふなり、某は厚運、某は薄運など云ふも則ち是なり。予(われ)が歌に「増減は器傾く水と見よ、あちらにませばこちらへるなり」皆此の通りなり、縦令(たとい)蓋をするも只目に見えぬのみ、水の増減するは疑ひなし。今爰(ここ)に薪を取りて自(みずか)ら焚(た)かずして売る者は、賎(いや)しきが如しといへども、夫(それ)丈けの運を増すなり、此の銭にて酒を呑めば、又直(ただち)に夫丈けの運を減らすなり。田畑へ肥(こや)しをする者は、眼前益無しといへども、秋に至れば実法(みの)り多し、此の時に則ち運をますなり。遊びなまけて田畑を麁作(そさく)したる者は、秋に至つて取実(しゅじつ)少し、爰に至つて運の減ずる事知るべし。皆明白にして愚夫愚婦(ぐふぐふ)といへども、此の道理は知るなるべし、此の道理を知つて能(よ)く勤むるは則ち道を悟りたるに同じ、是に於ては何を成すにも利益あるなり、是に反すれば何をなしても損失なり、誠に明白の理なり。
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二宮翁夜話・巻之三翁曰く、世人富貴(ふうき)を求めて止(とど)まる事を知らざるは凡俗の通病(つうびょう)なり。是を以て永く富貴を持つ事を能(あた)はず。夫れ止る処とは何ぞや。曰く、日本は日本の人の止る処なり。然らば此国は此国の人の止る処、其村は其村の人の止る処なり。されば千石の村も五百石の村も又同じ、海辺の村山谷の村皆然り。千石の村にして家百戸あれば、一戸十石に当る、是れ天命正に止るべき処なり。然るを先祖の余蔭(よいん)により百石二百石持居るは有難き事ならずや。然るに止る処を知らず、際限(さいげん)なく田畑を買ひ集めん事を願ふは尤(もっと)も浅間(あさま)し。譬ば山の頂(いただき)に登りて猶登らんと欲するが如し。己絶頂に在て猶下を見ずして上而已(のみ)を見るは危(あやう)し。夫れ絶頂に在て下を見る時は皆眼下なり。眼下の者は憐(あわ)れむべく恵むべき道理自(おのずか)らあり。然る天命を有する富者にして猶己を利せん事而已を欲せば、下の者如何ぞ貪(むさぼ)らざる事を得んや。若し上下互に利を争はば、奪はざれば飽(あか)ざるに到らんこと必せり。是れ禍(わざわい)の起るべき元因なり、恐るべし。且つ海浜に生れて山林を羨(うらや)み、山家に住して漁業を羨む等、尤も愚なり。海には海の利あり山には山の利あり、天命に安じて其外を願ふ事勿れ。
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二宮翁夜話・巻之一翁(おきな)曰(いわ)く、農にても商にても、富家(ふか)の子弟は、業(ぎょう)として勤むべき事なし、貧家の者は活計(かっけい)の為に、勤めざるを得ず、且(かつ)富を願(ねが)ふが故に、自ら勉強す、富家の子弟は、譬(たと)へば山の絶頂に居るが如く、登るべき処なく、前後左右皆(みな)眼下なり、是に依(よ)りて分外(ぶんがい)の願を起し、士の真似をし、大名の真似をし、増長に増長して、終(つい)に滅亡す、天下の富者皆然(しか)り、爰(ここ)に長く富貴を維持し、富貴を保つべきは、只(ただ)我道(わがみち)推譲の教(おしえ)あるのみ、富家の子弟、此推譲の道を蹈(ふ)まざれば、千百万の金ありといへども、馬糞茸(ばふんたけ)と何ぞ異(ことな)らん、夫(それ)馬糞茸は季候に依りて生じ、幾程(いくほど)もなく腐廃し、世上の用にならず、只徒(いたず)らに生じて、徒らに滅するのみ、世に富家と呼ばるゝ者にして、如斯(かくのごとく)なる、豈(あに)惜しき事ならずや。
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二宮翁夜話・続篇翁(おきな)曰(いわ)く、内に実(じつ)ありて外に顕(あらわ)るゝは、天理自然なり。内に実有りて外に顕れざるの理(ことわり)必(かならず)なし。譬(たと)へば日暮(ひぐれ)に燈火(ともしび)を点ずるを見るべし、附木(つけぎ)に火の付くや早(はや)、障子に火の影は移りて外より家の内に燈火のある事の知らるゝなり。其外深山(しんざん)の花木、泥中(でいちゅう)の鰌(どじょう)は、自(みずか)ら知らざる積(つも)りにても、人は早くも彼の山に花さきたり、此泥中に鰌の居ると知るなり。思はざるべけんや。
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二宮翁夜話・巻之二翁曰く、夫(それ)入るは出(いで)たる物の帰るなり、来るは押し譲(ゆず)りたる物の入り来るなり。譬(たと)へば、農人田畑の為に尽力し、人糞(こやし)を掛け干鰯(ほしか)を用ひ、作物の為に力を尽せば、秋に至りて実法(みの)りを得る事、必ず多き勿論なり。然るを菜を蒔(まき)て、出るとは芽をつみ、枝が出れば枝を切り、穂を出せば穂をつみ、実がなれば実を取る、此の如くなれば、決して収獲(しゅうかく)なし。商法も又同じ。己が利欲のみを専(もっぱら)として買人の為を思はず、猥(みだ)りに貪(むさぼ)らば、其店の衰微(すいび)、眼前なるべし。古語に、人心は惟(これ)危(あや)うし道心惟(これ)微(かす)かなり、惟(これ)精惟(これ)一、允(まこと)に其中を執(と)れ、四海困窮せば天禄永く終らん、とあり。是舜(しゅん)禹(う)天下を授受(じゅじゅ)するの心法なり。上として下に取る事多く、下困窮すれば、上の天禄も永く終るとあり。終るにはあらず、天より賜(たまわ)りたるを、天に取上げらるゝなり。其理又明白なり。誠に金言(きんげん)といふべし。然(しか)りといへども、儒者(じゅしゃ)の如く講じては、今日の用、何の用にもたゝぬ故、今汝等(なんじら)が為に、分り安く読みて聞かせん。支那(から)の咄(はな)しと思ひて、迂闊(うかつ)に聞かず、能く肝(きも)に銘(めい)ぜよ。人心惟危うし道心惟微かなりとは、身勝手にする事は危き物ぞ、他の為にする事は、いやになる物ぞと云ふ事なり。惟精惟一允に其中を執れとは、能く精力を尽し、一心堅固に二百石の者は、百石にて暮し、百石の者は、五十石にて暮し、其半分を推譲(おしゆず)りて、一村の衰(おとろ)へざる様、一村の益々(ますます)富(と)み益々栄(さか)える様に勉強せよ、と云ふ事なり。四海困窮せば、天禄永く終らんとは、一村困窮する時は、田畑を何程持ち居るとも、決して作徳は取れぬ様になる物ぞ、と云ふ事と心得べし。帝王の咄(はな)しなればこそ、四海と云ひ、天禄と云ふなれ。汝等が為には、四海を一村と読み、天禄は作徳と読むべし。能々(よくよく)肝銘せよ。
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二宮翁夜話・続篇翁(おきな)曰(いわ)く、若き者は、毎日能(よ)く勤めよ、是(これ)我が身に徳を積むなり。怠りなまけるを以て得と思ふは大なる誤なり。徳をつめば天より恵あること眼前なり。今雇人(やといにん)を以て譬(たと)へん、彼の男は能く働きて貞実(ていじつ)なり、来年は我が家に頼むべしといひ、能く勤むれば聟(むこ)に貰ふべしと云ふに至るものなり。是に反する者は、本年は取り極めたれば是非なし、来年は断るべしと云ふ様になるは眼前の事なり。無智短才(むちたんさい)なりとも能く謹み、能く顧み、身に過(あやまち)無き様にすべし。過ちは則(すなわ)ち身の疵(きず)なり。古語に「身体髪膚(しんたいはっぷ)之を父母に受く、敢(あえ)て毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり」とあり。人過てば身の疵となる事を知らず、傷さへせざればよしと思ふは違へり。且(かつ)過ちは身の疵なるのみならず、父母兄弟の顔をも汚すなり。慎まざるべけんや。