二宮翁夜話 / 巻之二
翁曰、大道は譬ば水の如し、善く世の中を潤沢して滞らざる物なり、然る尊き大道も、書に筆して書物と為す時は、世の中を潤沢する事なく、世の中の用に立つ事なし、譬ば水の氷りたるが如し、元水には相違なしといへども、少しも潤沢せず、水の用はなさぬなり、而て書物の注釈と云物は又氷に氷柱の下りたるが如く、氷の解て又氷柱と成しに同じ、世の中を潤沢せず、水の用を為さぬは、矢張同様なり、扨此氷となりたる経書を、世上の用に立んには胸中の温気を以て、能解して、元の水として用ひざれば、世の潤沢にはならず、実に無益の物なり、氷を解すべき温気胸中になくして、氷の儘にて用ひて水の用をなすと思ふは愚の至なり、世の中神儒仏の学者有て世の中の用に立ぬは是が為なり、能思ふべし、故に我教は実行を尊む、夫経文と云ひ経書と云、其経と云は元機の竪糸の事なり、されば、竪糸ばかりにては用をなさず、横に日々実行を織込て、初て用をなす物なり、横に実行を織らず、只竪糸のみにては益なき事、弁を待たずして明か也。
書き下し
翁曰(いわ)く、大道は譬(たと)へば水の如し、善く世の中を潤沢(じゅんたく)して滞(とどこお)らざる物なり、然(しか)る尊き大道も、書に筆して書物と為す時は、世の中を潤沢する事なく、世の中の用に立つ事なし、譬へば水の氷りたるが如し、元水には相違なしといへども、少しも潤沢せず、水の用はなさぬなり、而(しか)て書物の注釈と云ふ物は又氷に氷柱(つらら)の下りたるが如く、氷の解(と)けて又氷柱と成りしに同じ、世の中を潤沢せず、水の用を為さぬは、矢張(やは)り同様なり、扨(さて)此の氷となりたる経書を、世上の用に立てんには胸中の温気を以て、能(よ)く解して、元の水として用ひざれば、世の潤沢にはならず、実に無益の物なり、氷を解すべき温気(うんき)胸中になくして、氷の儘(まま)にて用ひて水の用をなすと思ふは愚の至りなり、世の中神儒仏の学者有りて世の中の用に立たぬは是が為なり、能く思ふべし、故に我が教は実行を尊む、夫(そ)れ経文と云ひ経書と云ふ、其の経と云ふは元機(はた)の竪糸(たていと)の事なり、されば、竪糸ばかりにては用をなさず、横に日々実行を織込て、初て用をなす物なり、横に実行を織らず、只竪糸のみにては益(えき)なき事、弁を待たずして明か也。
現代語訳
翁が言われた。大道はたとえれば水のようなものだ。よく世の中を潤して滞ることがない。しかしその尊い大道も、文字に書いて書物にしてしまうと、世の中を潤すこともなく、実際の役には立たなくなる。たとえば水が凍ったようなものだ。もとは水に違いないが、少しも潤さず、水としての働きをしない。さらに書物の注釈というものは、氷にできたつららのようなもので、氷が解けてまたつららになったのと同じで、やはり世を潤さず水の用をなさない。この氷となった経書を世の役に立てるには、胸の中の温かさでよく解かし、元の水に戻して用いなければ、世を潤すことにはならず、まったく無益なものだ。氷を解かす温かさが胸中にないまま、氷のまま使って水の役に立つと思うのは愚かの極みである。世に神道・儒教・仏教の学者がいながら世の役に立たないのはこのためだ。よく考えるべきである。だから私の教えは実行を尊ぶ。そもそも経文・経書というが、その「経」とは機(はた)の縦糸のことだ。縦糸だけでは用をなさず、横に日々の実行を織り込んで初めて役に立つものである。横に実行を織り込まず、縦糸だけでは何の益もないことは、論じるまでもなく明らかだ。
解説
この章句が説くこと
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