二宮翁夜話 / 巻之三
翁曰、世人富貴を求めて止る事を知らざるは凡俗の通病なり。是を以て永く富貴を持つ事を能はず。夫れ止る処とは何ぞや。曰く、日本は日本の人の止る処なり。然らば此国は此国の人の止る処、其村は其村の人の止る処なり。されば千石の村も五百石の村も又同じ、海辺の村山谷の村皆然り。千石の村にして家百戸あれば、一戸十石に当る、是れ天命正に止るべき処なり。然るを先祖の余蔭により百石二百石持居るは有難き事ならずや。然るに止る処を知らず、際限なく田畑を買ひ集めん事を願ふは尤も浅間し。譬ば山の頂に登りて猶登らんと欲するが如し。己絶頂に在て猶下を見ずして上而已を見るは危し。夫れ絶頂に在て下を見る時は皆眼下なり。眼下の者は憐むべく恵むべき道理自らあり。然る天命を有する富者にして猶己を利せん事而已を欲せば、下の者如何ぞ貪らざる事を得んや。若し上下互に利を争はば、奪はざれば飽ざるに到らんこと必せり。是れ禍の起るべき元因なり、恐るべし。且つ海浜に生れて山林を羨み、山家に住して漁業を羨む等、尤も愚なり。海には海の利あり山には山の利あり、天命に安じて其外を願ふ事勿れ。
書き下し
翁曰く、世人富貴(ふうき)を求めて止(とど)まる事を知らざるは凡俗の通病(つうびょう)なり。是を以て永く富貴を持つ事を能(あた)はず。夫れ止る処とは何ぞや。曰く、日本は日本の人の止る処なり。然らば此国は此国の人の止る処、其村は其村の人の止る処なり。されば千石の村も五百石の村も又同じ、海辺の村山谷の村皆然り。千石の村にして家百戸あれば、一戸十石に当る、是れ天命正に止るべき処なり。然るを先祖の余蔭(よいん)により百石二百石持居るは有難き事ならずや。然るに止る処を知らず、際限(さいげん)なく田畑を買ひ集めん事を願ふは尤(もっと)も浅間(あさま)し。譬ば山の頂(いただき)に登りて猶登らんと欲するが如し。己絶頂に在て猶下を見ずして上而已(のみ)を見るは危(あやう)し。夫れ絶頂に在て下を見る時は皆眼下なり。眼下の者は憐(あわ)れむべく恵むべき道理自(おのずか)らあり。然る天命を有する富者にして猶己を利せん事而已を欲せば、下の者如何ぞ貪(むさぼ)らざる事を得んや。若し上下互に利を争はば、奪はざれば飽(あか)ざるに到らんこと必せり。是れ禍(わざわい)の起るべき元因なり、恐るべし。且つ海浜に生れて山林を羨(うらや)み、山家に住して漁業を羨む等、尤も愚なり。海には海の利あり山には山の利あり、天命に安じて其外を願ふ事勿れ。
現代語訳
翁が言われた。世間の人が富や地位を求めて止まることを知らないのは、俗人に共通の病だ。だから長く富貴を保つことができない。そもそも「止まる所」とは何か。日本は日本人の止まる所であり、この国はこの国の人の、その村はその村の人の止まる所だ。千石の村も五百石の村も同じ、海辺の村も山あいの村もみなそうだ。千石の村に百戸あれば一戸十石が当たり前で、これが天命として正しく止まるべき所だ。それを先祖の余徳のおかげで百石二百石を持っているのは、ありがたいことではないか。なのに止まる所を知らず、際限なく田畑を買い集めようと願うのは実に浅ましい。たとえば山頂まで登ってなお登ろうとするようなものだ。頂上にいながら下を見ず上ばかり見るのは危うい。頂上にいて下を見れば、すべて眼下だ。眼下の者には自然と憐れみ恵むべき道理がある。そういう天命を持つ富者が、なお自分の利益だけを求めれば、下の者がどうして貪らずにいられよう。もし上下が互いに利を争えば、奪い合わねば満足しなくなるのは必至だ。これが禍いの起こる原因で、恐ろしいことだ。また、海辺に生まれて山林をうらやみ、山家に住んで漁業をうらやむなどは最も愚かだ。海には海の利、山には山の利がある。天命に安んじて、それ以外を願ってはならない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『弁名』智命を知るとは、天命を知るなり。天の命ずる所何如を知るを謂ふなり。先王の道は、天に本づき、天命を奉じて以て之を行ふ。君子の道を学ぶも、亦た以て天職を奉ぜんと欲するのみ。我道を学び徳を成して爵至らず、是れ天我に命じて以て道を人に伝へしむるなり。君子は教学を以て事と為し、人知らずして慍らず、是れ之を命を知ると謂ふ。凡そ人の力は、及ぶ有り、及ばざる有り。強ひて其の力の及ばざる所の者を求むるは、不智の大なる者なり。故に曰く、「命を知らざれば、以て君子為ること無きなり」と。後儒或いは其の然る所以の理を知ると曰ひ、或いは吉凶禍福を知ると曰ひ、或いは名利得失に毫も心を動かさずと曰ふ。皆道を知らざる者の言のみ。
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『翁問答』上卷之末かの病人悪寒発熱の病勢おとろへ本服しぬれば、常の人の如くに暑き寒さをおぼゆるものなり、その如く運命のいきをひおとろへて其分数極まりぬれば、必らず悪人は六極のがれ難く、善人は五福をうくるものなり、しかるゆへに盗跖は無病息災に難なくながいきして暮しぬる様なれども、おのれと六極の剛悪におちいりて、至誠無息の神理をうしなひ、万世不朽の悪名をながしぬれば、六極の報応さだかならずやまた顔子は箪瓢陋巷不幸短命なれども、五福の攸好徳をうけ、真楽の介福めでたく長在不滅の神理あきらかにして、万世きはまりなく、公爵の追贈四配の祭祀をうけ給ひぬれば、五福の嚮命あきらかならずや運命のいきおひによつて一旦見かけは福善禍淫の常にたがふやうなれども、畢竟しんじつの端的終には天命本然の常にたちかへるものなり、
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『都鄙問答』卷之四・或人主人行狀ノ是非ヲ問ノ段答ふ、其の一家一門の議は、皆々法を知らざるゆへなり。道有りて聚むる金銀は天命なり。天の賜ふ財を舎てず、天の命にそむかず、約を以て礼の本を守れり。又道を行ふ者は、他のそしりは、有るならひなり。孟子曰く、傷むこと無し、士は茲の多口に憎まる。詩に云ふ、憂心悄悄たり、群小に慍まると。孔子なりと。聖人の行ひは、小人の行ひに違へる故、衆の口の為に、孔子も譏りに逢ひ玉へり。又美食を好まざるは、身の分限なり。二汁五菜七菜などと云ふ重き料理は、下々のことにあらず。御上より品を分けて見ば、汝の親方の料理は、今少し奢にても有るべし。それを一門衆は、箸を取り初むる計りとは、分を知らざる奢る者なり。先づ飢饉年には、飯米の調へ代を借り、汝の親方の恵みにより飢ゑに及ばず、それを忘れ、身の分を知らず、
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尚書・康誥惟れ命は常には于いてせず。
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『初学訓』巻之三一人力を以て天命を得る道あり。士は、君に仕へてよく勤むれば、君の寵を得て、禄あつし。農は、田をつとめてよく作れば、秋のなりはひ多し。工商は、其家業をよくつとむれば富む。およそ、四民ともに、よくつとむれば家富む。古語にも、人生はつとめにあり、つとむれば乏しからず、といへり。又倹約を行ひて、濫りに財を費さざれば、よく家をたもちて貧しからず。又養生をよくつつしめば、命ながし。是皆、人力を以て天命を得る理あり。
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『大和俗訓』巻之四・心術下一天命は天のくだす所、人のうくる所なり。命は猶令のごとしとて、下知の意なり。天よりくだる故に天命といふ。天命に常あり変あり。善を行へば福あり、悪をすれば禍あるは常なり。善人に禍あり。悪人に福あるは変なり。人の吉凶、禍福、寿夭、富貴貧賤、万の幸不幸、皆天の命ずる所なり。人間の万事、天命にあらざる事なし。或は生れつきて定まり、或は時により不慮に命くだりて、偶然として福にあひ、わざはひにあふ。求めても命なければ得がたく、求めざれども命あれば得やすし。唯人の法を行ひて、天命をまつべし。善を行ひて福来るは常の理なれども、もし禍あるは、是また天命の変なれば、うれふべからず。およそ人天命を知りて、命にまかせ、うれひなき工夫をなすべし。天命を知らざれば、命のさだまりありて、福の求めがたく、禍の去りがたき事を知らず。利につき、害をさけんとし、人にへつらひ、神にへつらふは見ぐるし。愚なりといふべし。故に論語に、命を知らざれば以て君子たること無きなりといへり。

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