二宮翁夜話 / 巻之三
翁又曰、世に忠諫と云ふもの、大凡君の好む処に随て甘言を進め、忠言に似せて実は阿諛し、己が寵を取らんが為に君を損なふ者少からず。主たる者深く察して是を明にせずんば有可らず。某藩の老臣某氏曾て植木を好で多く持てり。人あり、某氏に語て曰く、何某の父植木を好で多く植置しを、其子漁猟のみを好で植木を愛せず、既に抜取て捨んとす、予是を惜んで止たりと、只雑話の序に語れり。某氏是を聞て曰く、何某の無情甚しいかな。夫れ樹木の如き植置も何の害かあらん、然るを抜て捨るとは如何にも惜き事ならずや、彼捨ば我拾はん、汝宜しく計へと、終に己が庭に移す。是れ何某なりし人、老臣たる人に取入らん為の謀にして、某氏其謀計に落し入られたるなり。而て某氏何某をして忠ある者と称し信ある者と称す。凡そ此の如くなれば、節儀の人も思はず知らず不義に陥るなり。興国安民の法に従事する者恐れざる可けんや。
新字:翁又曰、世に忠諫と云ふもの、大凡君の好む処に随て甘言を進め、忠言に似せて実は阿諛し、己が寵を取らんが為に君を損なふ者少からず。主たる者深く察して是を明にせずんば有可らず。某藩の老臣某氏曽て植木を好で多く持てり。人あり、某氏に語て曰く、何某の父植木を好で多く植置しを、其子漁猟のみを好で植木を愛せず、既に抜取て捨んとす、予是を惜んで止たりと、只雑話の序に語れり。某氏是を聞て曰く、何某の無情甚しいかな。夫れ樹木の如き植置も何の害かあらん、然るを抜て捨るとは如何にも惜き事ならずや、彼捨ば我拾はん、汝宜しく計へと、終に己が庭に移す。是れ何某なりし人、老臣たる人に取入らん為の謀にして、某氏其謀計に落し入られたるなり。而て某氏何某をして忠ある者と称し信ある者と称す。凡そ此の如くなれば、節儀の人も思はず知らず不義に陥るなり。興国安民の法に従事する者恐れざる可けんや。
書き下し
翁又曰く、世に忠諫(ちゅうかん)と云ふもの、大凡君の好む処に随(したが)ひて甘言を進め、忠言に似せて実は阿諛(あゆ)し、己が寵(ちょう)を取らんが為に君を損(そこ)なふ者少からず。主たる者深く察(さっ)して是を明にせずんば有る可(べ)からず。某藩の老臣某氏曾(かつ)て植木を好みて多く持てり。人あり、某氏に語りて曰く、何某(なにがし)の父植木を好みて多く植置(うえおき)しを、其子漁猟(ぎょりょう)のみを好みて植木を愛せず、既に抜取て捨てんとす、予是を惜(お)しんで止(と)めたりと、只雑話(ぞうわ)の序(ついで)に語れり。某氏是を聞きて曰く、何某の無情甚しいかな。夫れ樹木の如き植置も何の害かあらん、然るを抜て捨るとは如何にも惜き事ならずや、彼(かれ)捨てば我拾はん、汝(なんじ)宜しく計(はか)らへと、終に己が庭に移す。是れ何某なりし人、老臣たる人に取入らん為の謀(はかりごと)にして、某氏其謀計に落し入られたるなり。而て某氏何某をして忠ある者と称し信ある者と称す。凡そ此の如くなれば、節儀(せつぎ)の人も思はず知らず不義に陥(おちい)るなり。興国安民(こうこくあんみん)の法に従事する者恐れざる可けんや。
現代語訳
翁がまた言われた。世に「忠義の諫言」というものは、たいてい主君の好むことに合わせて甘い言葉を進め、忠言に似せて実は媚びへつらい、自分が寵愛を得るために主君を損なう者が少なくない。主君たる者は深く見抜いて、これを明らかにしなければならない。ある藩の重臣某氏は、かつて植木を好んで多く持っていた。ある人が某氏に語った。「誰それの父は植木を好んで多く植えていたが、その子は漁ばかり好んで植木を愛さず、もう抜いて捨てようとしている。私はそれを惜しんで止めました」と、ただ世間話のついでに語った。某氏はこれを聞いて言った。「誰それは何と薄情なことよ。樹木を植えておいて何の害があろう。それを抜いて捨てるとは実に惜しいことではないか。あちらが捨てるなら私がもらおう、おまえ、うまく取り計らってくれ」と、ついに自分の庭に移した。これは、その語った男が重臣に取り入るための策略で、某氏はその計略にまんまと落とされたのだ。しかも某氏はその男を、忠義ある者、信義ある者だと褒めた。だいたいこうして、節操ある人も知らず知らず不義に陥る。国を興し民を安んずる仕事に携わる者は、これを恐れずにいられようか。