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二宮翁夜話 / 巻之二

翁又曰、茶師利休が歌に「寒熱の地獄に通ふ茶柄杓も心なければ苦もなし」と云へり。此歌未だ尽さず。如何となれば、其心無心を尊ぶといへども、人は無心なるのみにては国家の用をなさず。夫れ心とは我心の事なり、只我を去りしのみにては未だ足らず。我を去て其上に一心を決定し、毫末も心を動さゞるに到らざれば尊むにたらず。故に我れ常に云ふ、此歌未だ尽さずと。今試みに詠み直さば「茶柄杓の様に心を定めなば湯水の中も苦みはなし」とせば可ならんか。夫れ人は一心を決定し動さゞるを尊むなり。夫れ富貴安逸を好み貧賤勤労を厭ふは凡情の常なり。婿嫁たる者、養家に居るは夏火宅に居るが如く冬寒野に出るが如く、又実家に来る時は夏氷室に入るが如く冬火宅に寄るが如き思ひなる物なり。此時其身に天命ある事を弁へ、天命の安ずべき理を悟り、養家は我家なりと決定して心を動さざる事、不動尊の像の如く、猛火背を焼くといへども動じと決定し、養家の為に心力を尽す時は、実家へ来らんと欲するとも其暇あらざるべし。斯の如く励む時は、心力勤労も苦にはならぬ物なり。是れ只我を去ると一心の覚悟決定の徹底にあり。夫れ農夫の暑寒に田畑を耕し風雨に山野を奔走する、車力の車を押し米搗きの米を搗くが如き、他の慈眼を以て見る時は其勤苦云ふべからず、気の毒の至なりといへ共、其身に於ては兼て決定して労動に安ずるなれば苦には思はぬなり。武士の戦場に出で野にふし山にふし、君の馬前に命を捨るも一心決定すればこそ出来るなれ。されば人は天命を弁へ天命に安んじ、我を去て一心決定して動かざるを尊しとす。

書き下し

翁又曰く、茶師利休(りきゅう)が歌に「寒熱(かんねつ)の地獄(じごく)に通(かよ)ふ茶柄杓(ちゃびしゃく)も心なければ苦(くるしみ)もなし」と云へり。此歌未(いま)だ尽(つく)さず。如何(いか)となれば、其心無心を尊ぶといへども、人は無心なるのみにては国家の用をなさず。夫(そ)れ心とは我心(がしん)の事なり、只我(が)を去りしのみにては未だ足らず。我を去て其上に一心を決定し、毫末(ごうまつ)も心を動(うご)さゞるに到らざれば尊むにたらず。故に我れ常に云ふ、此歌未だ尽さずと。今試(こころ)みに詠み直さば「茶柄杓の様に心を定めなば湯水の中も苦みはなし」とせば可ならんか。夫れ人は一心を決定し動さゞるを尊むなり。夫れ富貴安逸(あんいつ)を好み貧賤(ひんせん)勤労(きんろう)を厭(いと)ふは凡情の常なり。婿(むこ)嫁(よめ)たる者、養家に居るは夏火宅(かたく)に居るが如く冬寒野に出るが如く、又実家に来る時は夏氷室(ひむろ)に入るが如く冬火宅に寄るが如き思ひなる物なり。此時其身に天命ある事を弁(わきま)へ、天命の安ずべき理を悟(さと)り、養家は我家なりと決定して心を動さざる事、不動尊(ふどうそん)の像の如く、猛火(もうか)背を焼くといへども動じと決定し、養家の為に心力を尽す時は、実家へ来らんと欲するとも其暇(いとま)あらざるべし。斯(か)くの如く励む時は、心力勤労も苦にはならぬ物なり。是れ只我を去ると一心の覚悟決定(けつじょう)の徹底にあり。夫れ農夫の暑寒に田畑を耕し風雨に山野を奔走(ほんそう)する、車力(しゃりき)の車を押し米搗(つ)きの米を搗くが如き、他の慈眼(じがん)を以て見る時は其勤苦(きんく)云ふべからず、気の毒の至なりといへ共、其身に於ては兼て決定して労動に安ずるなれば苦には思はぬなり。武士の戦場に出で野にふし山にふし、君の馬前(ばぜん)に命を捨るも一心決定すればこそ出来るなれ。されば人は天命を弁へ天命に安んじ、我を去て一心決定して動かざるを尊しとす。

現代語訳

翁がまた言われた。茶人・利休の歌に「寒暑の地獄を行き来する茶柄杓も、心がないから苦しみもない」とある。だがこの歌はまだ言い尽くしていない。なぜなら、無心を尊ぶといっても、人はただ無心であるだけでは国家の役に立たないからだ。心とは自我のこと。自我を捨てただけではまだ足りない。自我を捨てた上で、心を一つに定め、少しも動じない境地に至らなければ尊ぶに値しない。だから私はいつも、この歌はまだ言い尽くしていないと言う。試みに詠み直せば「茶柄杓のように心を定めれば、湯水の中でも苦しみはない」とすればよかろうか。人は心を一つに定めて動じないことを尊ぶのだ。富貴と安楽を好み、貧賤と労働を嫌うのは凡人の常。婿や嫁が養家にいるのは、夏に燃える家にいるよう、冬に寒野に出るようで、実家へ来れば夏に氷室に入り冬に暖かい家に寄るような心地がするものだ。このとき、わが身に天命があると弁え、天命に安んじる道理を悟り、養家こそわが家だと心を定めて動かさぬこと――不動明王の像のように、猛火が背を焼いても動じぬと決めて養家のために心力を尽くせば、実家へ帰りたいと思う暇もなくなる。こうして励めば、心身の労苦も苦にはならない。これはただ自我を捨て、覚悟を徹底することにある。農夫が暑さ寒さの中で田畑を耕し、風雨の中を山野に走り回り、車力が車を押し、米搗きが米を搗くのを、他人が同情の目で見れば、その苦労は言葉にできぬほど気の毒だが、本人はかねて覚悟を定めて労働に安んじているから苦とは思わない。武士が戦場に出て野に伏し山に伏し、主君の馬前に命を捨てるのも、心を一つに定めればこそできることだ。だから人は天命を弁え、天命に安んじ、自我を捨てて心を一つに定め、動じないことを尊いとするのだ。

解説

利休の「無心」の歌を引きつつ、尊徳はそれを一歩進めます。ただ心を無にするだけでは世の役に立たない、自我を捨てた上で心を一つに定め、何があっても動じない覚悟こそ尊いと説くのです。婿嫁が養家を「わが家」と定めて尽くせば労苦も苦にならず、農夫や武士が過酷な務めに耐えられるのも、あらかじめ覚悟を決めているからだと言います。これは報徳思想の至誠と勤労を、内面の決意の面から語ったものです。現代でも、逃げ場を探す心を断ち、いま置かれた場所を自分の場と定めて全力を尽くす覚悟があれば、同じ苦労も苦ではなくなる。腹の据わった一心の大切さを教えてくれます。

この章句が説くこと

二宮翁夜話報徳一心決定至誠勤労覚悟

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