二宮翁夜話 / 巻之二
駿河国元吉原村某、柏原の沼水を海岸に切落して、開拓せん事を出願し許可を受く、帰路予が家に一泊し、地図書類を出して、願望成就せり、能き金主はあるまじきやと云へり、予曰、なし、然といへ共、思ふ処あり、地図を明朝までと云ひて留め置たり、此時翁、予が家に入浴なり、竊に地図を開きて翁に成否を問ふ、翁曰、実地にあらざれば、可否は言べからず、然といへども、云処の如く沼浅く、三面畑ならば、畑にても岡にても、便よき処より切崩して埋立るを勝れりとすべし、此水を海に切落すとも、水思ふ様に引や引ざるや計り難し、又大風雨の時、砂を巻き潮を湛へまじき物にもあらねば埋立るにしかざるべし、是を埋立るは愚なるが如しといへども、一反埋れば一反出来、二反埋れば二反出来、間違ひもなく跡戻りもなく、手違ひもなく、見込違ひもなし、埋立るを上策とすべし、予又問ふ、埋立る方法如何、曰、実地を見ざれば、今別に工風なし、小車にて押すと、牛車にて引との二ッなり、車道には仮に板を敷べし、案外にはかゆく物なり、且埋地一反なれば、土を取たる跡も、二畝三畝は出来べし、一反手軽きは何程位、手重きも幾許位なるべし、鍬下用捨を少し永く願はゞ、熟田を買ふより益多かるべしと、教へらる、予此事を予が工風にして、某に告ぐ、某笑て答へず
書き下し
駿河国元吉原村某、柏原(かしわばら)の沼水を海岸に切落(きりおと)して、開拓せん事を出願し許可を受く、帰路予(よ)が家に一泊し、地図書類を出して、願望(がんもう)成就(じょうじゅ)せり、能(よ)き金主はあるまじきやと云へり、予曰く、なし、然といへ共、思ふ処あり、地図を明朝までと云ひて留(とど)め置(お)きたり、此時翁(おきな)、予が家に入浴なり、竊(ひそ)かに地図を開きて翁に成否を問ふ、翁曰く、実地にあらざれば、可否は言(いう)べからず、然といへども、云処の如く沼浅く、三面畑ならば、畑にても岡にても、便(たよ)りよき処より切崩(きりくず)して埋(うめ)立るを勝(まさ)れりとすべし、此水を海に切落すとも、水思ふ様に引(ひく)や引(ひか)ざるや計り難し、又大風雨の時、砂を巻き潮(うしお)を湛(たた)へまじき物にもあらねば埋立るにしかざるべし、是を埋立るは愚なるが如しといへども、一反埋れば一反出来、二反埋れば二反出来、間違ひもなく跡戻(あともど)りもなく、手違(ちが)ひもなく、見込違ひもなし、埋立るを上策(じょうさく)とすべし、予又問ふ、埋立る方法如何、曰く、実地を見ざれば、今別に工風(くふう)なし、小車にて押すと、牛車にて引との二ッなり、車道には仮に板を敷(しく)べし、案外にはかゆく物なり、且(かつ)埋地一反なれば、土を取たる跡も、二畝(せ)三畝は出来べし、一反手軽きは何程位、手重きも幾許(いくばく)位なるべし、鍬下用捨(くわしたようしゃ)を少し永く願はゞ、熟田(じゅくでん)を買ふより益多かるべしと、教へらる、予此事を予が工風にして、某に告ぐ、某笑て答へず
現代語訳
駿河国元吉原村のある者が、柏原の沼の水を海岸へ切り落として開拓しようと出願し、許可を受けた。帰り道に私の家に一泊し、地図や書類を出して「願いが叶いました。良い出資者はいないでしょうか」と言った。私は「いない」と答えた。とはいえ思うところがあり、地図を明朝までと言って留め置いた。ちょうどそのとき翁が私の家で入浴されていた。ひそかに地図を開いて翁に成否を尋ねた。翁が言われた。実地でなければ可否は言えない。とはいえ、話のように沼が浅く三方が畑なら、畑でも丘でも便利な所から切り崩して埋め立てるほうが優れているとすべきだ。この水を海に切り落としても、水が思うように引くか引かないか測りがたい。また大風雨のとき、砂を巻き込み潮をたたえないとも限らないから、埋め立てるに越したことはない。これを埋め立てるのは愚かなようだが、一反埋めれば一反でき、二反埋めれば二反できて、間違いも後戻りも手違いも見込み違いもない。埋め立てを上策とすべきだ。私はまた尋ねた。埋め立ての方法はどうか。翁が言った。実地を見なければ今は別に工夫はない。手押し車で押すか牛車で引くかの二つだ。車道には仮に板を敷くとよい。案外はかどるものだ。しかも埋める地が一反なら、土を取った跡も二畝三畝はできる。一反で手軽な所はどのくらい、手のかかる所でもどのくらいと見当がつく。鍬下の年季免除を少し長く願えば、出来上がった田を買うより利益は多いだろう、と教えられた。私はこのことを自分の工夫として某に告げた。某は笑って答えなかった。