二宮翁夜話 / 巻之二
翁曰、吉凶禍福苦楽憂歓等は、相対する物なり、如何となれば、猫の鼠を得る時は楽の極なり、其得られたる鼠は苦の極なり、蛇の喜極る時は蛙の苦極る、鷹の悦極る時は雀の苦極る、猟師の楽は鳥獣の苦なり、漁師の楽は魚の苦なり、世界の事皆斯の如し、是は勝て喜べば、彼は負て憂ふ、是は田地を買て喜べば、彼は田地を売て憂ふ、是は利を得て悦べば、彼は利を失ふて憂ふ、人間世界皆然り、たまたま悟門に入る者あれば、是を厭ひて山林に隠れ、世を遁れ世を捨つ、是又世上の用をなさず、其志其行ひ、尊きが如くなれども、世の為にならざれば賞するにたらず、予が戯歌に「ちうちうとなげき苦むこゑきけば鼠の地獄猫の極楽」、一笑すべし、爰に彼悦んで是も悦ぶの道なかるべからずと考ふるに、天地の道、親子の道、夫婦の道、又農業の道との四ッあり、是法則とすべき道なり、能考ふべし。
書き下し
翁曰く、吉凶禍福(かふく)苦楽憂歓(ゆうかん)等は、相対(あいたい)する物なり。如何(いかん)となれば、猫の鼠(ねずみ)を得る時は楽の極なり、其得られたる鼠は苦の極なり。蛇(へび)の喜び極まる時は蛙(かえる)の苦極まる、鷹(たか)の悦び極まる時は雀(すずめ)の苦極まる。猟師(りょうし)の楽は鳥獣(とりけだもの)の苦なり、漁師(ぎょし)の楽は魚の苦なり。世界の事皆斯(かく)の如し。是(これ)は勝ちて喜べば、彼は負けて憂ふ。是は田地を買ひて喜べば、彼は田地を売りて憂ふ。是は利を得て悦べば、彼は利を失ふて憂ふ。人間世界皆然(しか)り。たまたま悟門(ごもん)に入る者あれば、是を厭(いと)ひて山林に隠(かく)れ、世を遁(のが)れ世を捨つ。是又世上の用をなさず。其志其行ひ、尊(たっと)きが如くなれども、世の為にならざれば賞するにたらず。予が戯(たわむれ)歌に「ちうちうとなげき苦しむこゑきけば鼠(ねずみ)の地獄(じごく)猫(ねこ)の極楽」、一笑すべし。爰(ここ)に彼悦んで是も悦ぶの道なかるべからずと考ふるに、天地の道、親子の道、夫婦の道、又農業の道との四ッあり。是(これ)法則とすべき道なり。能(よく)考ふべし。
現代語訳
翁が言われた。吉凶・禍福・苦楽・憂歓などは、互いに相対するものだ。なぜなら、猫が鼠を捕らえるときは楽の極みだが、捕らえられた鼠は苦の極みだ。蛇の喜びが極まるとき蛙の苦しみが極まり、鷹の喜びが極まるとき雀の苦しみが極まる。猟師の楽しみは鳥獣の苦しみであり、漁師の楽しみは魚の苦しみだ。世の中のことはみなこのようだ。こちらが勝って喜べば、あちらは負けて憂える。こちらが田地を買って喜べば、あちらは田地を売って憂える。こちらが利を得て喜べば、あちらは利を失って憂える。人間世界はみなこうだ。たまたま悟りの門に入る者があると、これを厭って山林に隠れ、世を逃れ世を捨てる。これもまた世の役に立たない。その志や行いは尊いようでも、世のためにならなければ賞するに足りない。私の戯れ歌に「ちゅうちゅうと嘆き苦しむ声を聞けば、鼠の地獄は猫の極楽」というのがある、笑うがよい。さて、あちらも喜びこちらも喜ぶ道がないはずはないと考えると、天地の道、親子の道、夫婦の道、そして農業の道の四つがある。これこそ法則とすべき道だ。よく考えるがよい。
解説
この章句が説くこと
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二宮翁夜話・巻之二翁曰く、世界の中、法則とすべき物は、天地の道と親子の道と夫婦の道と農業の道との四ッなり。此道は誠に両全完全の物なり。百事此四ッを法とすれば誤(あやま)ちなし。予が歌に「おのが子を恵(めぐ)む心を法(のり)とせば学ばずとても道に到らん」とよめるは此心なり。夫(それ)天は生々(せいせい)の徳を下し、地は之を受けて発生し、親は子を育(そだ)して、損益を忘れ、混(ひたす)ら生長を楽み、子は育せられて、父母を慕(した)ふ。夫婦の間、又相互に相楽んで子孫相続す。農夫勤労して、植物の繁栄を楽み、草木又欣々(きんきん)として繁茂す。皆相共に苦情なく、悦喜の情のみ。扨(さて)此道に法取(のっと)る時は、商法は、売りて悦び買ひて悦ぶ様にすべし。売りて悦び買ひて喜ばざるは、道にあらず。買ひて喜び売りて悦ばざるも、道にあらず。貸借の道も亦同じ。借りて喜び貸して喜ぶ様にすべし。借りて喜び貸して悦ばざるは、道にあらず。貸して悦び借りて喜ばざるは、道にあらず。百事此の如し。夫(それ)我教は是を法(のり)とす。故に天地生々の心を心とし、親子と夫婦との情に基(もとづ)き、損益を度外に置(お)き、国民の潤助(じゅんじょ)と土地の興復(こうふく)とを楽むなり。然(しか)らざれば能(あた)はざる業なり。夫(それ)無利息金貸付の道は、元金の増加するを徳とせず、貸付高の増加するを徳とするなり。是利を以て利とせず、義を以て利とするの意なり。元金の増加を喜ぶは利心なり、貸附高の増加を喜ぶは善心なり。元金は終に百円なりといへども、六十年繰返し繰返し貸す時は、其貸附高は一万二千八百五十円となる。而(しか)て元金は元の如く百円にして増減なく、国家人民の為に益ある事莫大なり。正に日輪(にちりん)の万物を生育し万歳(ばんざい)を経(ふ)れども一ッの日輪なるが如し。古語に、敬(けい)する処の物少くして悦ぶ者多し、之を要道と云ふ、とあるに近し。我(われ)此法を立てし所以(ゆえん)は、世上にて金銀を貸し催促(さいそく)を尽(つく)したる後、裁判(さいばん)を願ひ取(と)れざる時に至りて、無利足年賦となすが通常なり。此理を未(いま)だ貸さざる前に見て、此法を立てたるなり。されども未(いま)だ足らざる処あるが故に、無利足何年置据貸(おきすえがし)と云ふ法をも立てたり。此の如く為さざれば、国を興(おこ)し世を潤(うるお)すにたらざればなり。凡(およ)そ事は成行くべき先を、前に定むるにあり。人は生(うま)るれば必ず死すべき物なり。死すべき物と云ふ事を前に決定すれば、活(い)きて居る丈(だけ)日々利益なり。是予が道の悟(さと)りなり。生れ出でては、死のある事を忘るゝ事なかれ。夜が明けなば暮るゝと云ふ事を忘るゝ事なかれ。
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二宮翁夜話・続篇翁(おきな)曰(いわ)く、世界元(もと)吉凶禍福(きっきょうかふく)苦楽生滅(くらくしょうめつ)なし、予(われ)が示せる一円図(いちえんず)の如し。而(しか)して是(これ)あるは、其(そ)の半(なかば)に己(おのれ)と云ふ者を置きて隔つる故なり。人は云ふ、万物土より生じて土に帰ると、是まだ尽さず、眼前の論なり、是は江戸人が旅客は品川より出づと云ふが如し、其の出京(しゅっきょう)は区々(まちまち)なるなり。艸木(そうもく)の春生育して秋枯るゝを見て、秋を無常(むじょう)といへども、農家にては秋実(じつ)を得て悦ぶなり、艸の上より見れば誠に無常なれども、種の上より見る時は有常(うじょう)なり。されば無常も無常にあらず、有常も有常にあらずと云ふべし。
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、「咲(さけ)ばちり散(ち)れば又さき年毎(としごと)に詠(なが)め尽(つき)せぬ花の色々(いろいろ)」、困窮(こんきゅう)に陥(おちい)り、如何(いか)ともすべき様(よう)なくて、売出(うりだ)す物品を、安(やす)ひ物だと悦(よろこ)んで買(か)ひ、又不運(ふうん)極(きわま)り拠(よりどころ)なく、家を売て裏店(うらだな)へ引込(ひきこ)めば、表店(おもてだな)へ出て目出度(めでたし)と悦ぶ者、絶(たえ)ずある世の中なり、「増減(ぞうげん)は器(うつわ)傾(かたむ)く水と見よこちらに増(ま)せばあちらへるなり」、物価の騰貴(とうき)に、大利を得る者あれば、大損(たいそん)の者あり、損をして悲(かな)しむあれば、利を得て悦ぶ者あり、苦楽(くらく)存亡(そんぼう)栄辱(えいじょく)得失(とくしつ)、こちらが増(ま)すとあちらの減(へ)るとの外になし、皆是(これ)自他を見る事能(あた)はざる半人足(はんにんそく)の、寄合(よりあ)ひ仕事なり、「喰(く)へばへり減(へ)れば又喰ひいそがしや永(なが)き保(たも)ちのあらぬ此身(このみ)ぞ」、屋根は銅板(あかがねいた)で葺(ふ)き、蔵(くら)は石で築(きず)くべけれども、三度の飯(めし)を一度に喰ひ置く事は出来ず、やがて寒(さむさ)が来るとて、着物を先に着(き)て置(お)くと云ふ事も出来ぬ人身(ひとみ)なり、されば長くは生(いき)られぬは天命なり、「腹(はら)くちく喰ふてつきひく女子(おなご)等は仏(ほとけ)にまさる悟(さとり)なりけり」、我(わが)腹に食(しょく)満(みつ)れば寝(ね)て居るは、犬猫(いぬねこ)を始(はじめ)心無き物の常情(じょうじょう)なり、然るに食事を済(すま)すと、直(ただち)に明日(あす)喰ふべき物を拵(こしら)へるは、未来の明日の大切なる事を能(よく)悟(さと)る故なり、此悟(このさとり)こそ人道必用の悟なれ、此の理を能悟れば、人間は夫(それ)にて事足るべし、是(これ)我(わが)教、悟道(ごどう)の極意なり、悟道者流の悟りは、悟るも悟(さとら)ざるも、知るも知らざるも、共に害もなし益もなし、「我といふ其(その)大元(おおもと)を尋(たずぬ)れば食(く)ふと着(き)るとの二つなりけり」、人間世界の事は政事(せいじ)も教法(きょうほう)も、皆此二つの安全を計(はか)る為のみ、其他(そのた)は枝葉(しよう)のみ潤色(じゅんしょく)のみ
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二宮翁夜話・巻之四翁(おきな)曰(いわ)く、凡(およ)そ世の中は陰(いん)々と重(かさな)りても立ず、陽(よう)々と重るも又同じ、陰陽々々と並(なら)び行(おこなわ)るゝを定則とす、譬(たと)へば寒暑昼夜水火男女あるが如し、人の歩行も、右一歩左一歩、尺蠖(しゃくとり)虫も、屈(かが)みては伸(の)び屈ては伸び、蛇(へび)も、左へ曲(まが)り右に曲りて、此の如くに行(おこな)ふなり、畳(たたみ)の表(おもて)や莚(むしろ)の如きも、下へ入ては上に出、上に出ては下に入り、麻布(あさぬの)の麁(あら)きも羽二重(はぶたえ)の細(こまか)なるも皆同じ、天理なるが故なり。
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二宮翁夜話・巻之一翁(おきな)曰(いわ)く、善悪の論甚(はなは)だむづかし、本来を論ずれば、善も無し悪もなし、善と云(い)ひて分(わか)つ故に、悪と云(い)ふ物出来(でき)るなり、元(もと)人身(じんしん)の私(わたくし)より成れる物にて、人道上の物なり、故に人なければ善悪なし、人ありて後に善悪はある也、故に人は荒蕪(あれち)を開くを善とし、田畑を荒すを悪となせども、猪(い)鹿(しか)の方にては、開拓を悪とし荒すを善とするなるべし、世法(せほう)盗(ぬすびと)を悪とすれども、盗中間(なかま)にては、盗を善とし是(これ)を制する者を悪とするならん、然(しか)れば、如何(いか)なる物是善ぞ、如何なる物是悪ぞ、此理(このり)明弁し難し、此理の尤(もっと)も見安きは遠近なり、遠近と云ふも善悪と云ふも理は同じ、譬(たと)へば杭(くい)二本を作り、一本には遠(とおし)と記し一本には近(ちかし)と記し、此二本を渡して、此杭を汝(なんじ)が身より遠き所と近き所と、二所に立(た)つべしと云付(いいつ)くる時は、速(すみや)かに分る也、予(よ)が歌に「見渡せば遠き近きはなかりけりおのれおのれが住処(すみど)にぞある」と、此歌善きもあしきもなかりけりといふ時は、人身に切なる故に分らず、遠近は人身に切ならざるが故によく分る也、工事に曲直を望むも、余り目に近過ぐる時は見えぬ物也、さりとて遠過ても又眼力及ばぬ物なり、古語に、遠山(とおきやま)木なし、遠海(とおきうみ)波なし、といへるが如し、故に我身に疎(うと)き遠近に移して諭す也、夫(そ)れ遠近は己(おの)が居処(いどころ)先(ま)づ定りて後に遠近ある也、居処定らざれば遠近必(かなら)ずなし、大坂遠しといはゞ関東の人なるべし、関東遠しといはゞ上方の人なるべし、禍福吉凶是非得失皆是(これ)に同じ、禍福も一つなり、善悪も一つなり、得失も一つ也、元一つなる物の半(なか)ばを善とすれば、其半は必悪也、然るに其半に悪なからむ事を願ふ、是成(な)り難き事を願ふなり、夫れ人生れたるを喜べば、死の悲しみは随(したが)ひて離れず、咲(さ)きたる花の必ちるに同じ、生じたる草の必枯るゝにおなじ、涅槃経(ねはんぎょう)に此譬(たとえ)あり、或人の家に容貌(かおかたち)美麗(うるわし)く端正なる婦人入り来(きた)る、主人如何なる御人ぞと問(と)ふ、婦人答て曰(いわ)く、我は功徳天(くどくてん)なり、我至る所、吉祥(きっしょう)福徳無量なり、主人悦んで請(しょう)じ入る、婦人曰く、我に随従の婦一人あり、必跡より来る、是をも請ずべしと、主人諾(だく)す、時に一女来る、容貌醜陋(しゅうろう)にして至て見悪(にく)し、如何なる人ぞと問ふ、此女答て曰く、我は黒闇天(こくあんてん)なり、我至る処、不詳(ふしょう)災害ある無限なりと、主人是を聞(き)き大に怒(いか)り、速(すみや)かに帰り去れといへば、此女曰く、前に来れる功徳天は我(わが)姉なり、暫(しばら)くも離(はな)るる事あたはず、姉を止(とど)めば我をも止めよ、我をいださば姉をも出(いだ)せと云ふ、主人暫く考へて、二人ともに出しやりければ、二人連れ立(だ)ちて出(いで)行きけり、と云事ありと聞けり、是(これ)生者必滅会者定離(しょうじゃひつめつえしゃじょうり)の譬(たとえ)なり、死生は勿論、禍福吉凶損益得失皆同じ、元禍(わざわい)と福と同体にして一円なり、吉と凶と兄弟にして一円也、百事皆同じ、只今も其通り、通勤する時は近くてよいといひ、火事だと云ふと遠くてよかりしと云ふ也、是を以てしるべし。
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、儒に、至善(しぜん)に止(とど)まるとあり、仏に、諸善奉行(しょぜんぶぎょう)と云(い)へり、然れども其(その)善と云ふ物、如何(いか)なる物ぞと云ふ事、慥(たし)かならぬ故に、人々善を為す積(つも)りにて、其為す処皆違(たが)へり、夫(それ)元(もと)善悪は一円(いちえん)也(なり)、盗人(ぬすびと)仲間にては、能(よく)盗(ぬす)むを善とし、人を害しても盗みさへすれば善とするなるべし、然(しか)るに、世法(せほう)は盗を大悪とす、其懸隔(けんかく)此の如し、而(しか)して天に善悪あらず、善悪は、人道にて立たる物なり、譬(たと)へば草木の如き、何ぞ善悪あらんや、此人体(じんたい)よりして、米を善とし、莠(はぐさ)を悪とす、食物になると、ならざるとを以てなり、天地何ぞ此別(このわか)ちあらん、夫莠草(はぐさ)は、生るも早く茂(しげ)るも早し、天地生々(せいせい)の道に随(したが)ふ事、速(すみやか)なれば、是を善草と云ふも不可なかるべし、米麦の如き、人力を借りて生ずる物は、天地生々の道に随ふ事、甚(はなは)だ迂闊(うかつ)なれば、悪草と云ふも不可なかるべし、然るに只(ただ)食ふべきと、食ふ可(べ)からざるとを以て、善悪を分つは、人体より出(いで)たる、癖道(へきどう)にあらずして何ぞ、此理(このり)を知らずばあるべからず、夫上下貴賤(じょうげきせん)は勿論(もちろん)、貸(か)す者と借(か)る者と、売(う)る人と買(か)ふ人と、又人を遣(つか)ふ者、人に遣(つか)はるる者に引当(ひきあ)て、能々(よくよく)思考すべし、世の中万般(ばんぱん)の事皆同じ、彼(かれ)に善なれば是(これ)に悪(あ)しく、是に悪きは彼によし、生(せい)を殺(ころ)して喰(くら)ふ者はよかるべけれど、喰はるる物には甚(はなは)だ悪(あ)し、然(しか)といへども、既(すで)に人体あり、生物を喰はざれば、生を遂(とぐ)る事能(あた)はざるを如何(いかん)せん、米麦蔬菜(そさい)といへども、皆生物にあらずや、予(よ)此理を尽(つく)し「見渡せば遠き近きは無かりけり己々(おのれおのれ)が住処(すみど)にぞある」と詠(よめ)るなり、されども、是は其理を云へるのみ、夫人(それひと)は米食(こめく)ひ虫なり、此米食虫(こめくいむし)の仲間にて、立たる道は、衣食住になるべき物を、増殖(ぞうしょく)するを善とし、此三つの物を、損害(そんがい)するを悪と定む、人道にて云ふ処の善悪は、是を定規(じょうぎ)とする也、此(これ)に基(もとづ)きて、諸般(しょはん)人の為に便利なるを善とし、不便利なるを悪と立てし物なれば、天道とは格別(かくべつ)なる事論を待(ま)たず、然といへども、天道に違(たが)ふにはあらず、天道に順(したが)ひつつ違ふ処ある道理を知らしむるのみ