二宮翁夜話 / 巻之一
翁曰、聖人も聖人にならむとて、聖人になりたるにはあらず、日々夜々天理に随ひ人道を尽して行ふを、他より称して聖人といひしなり、堯舜も一心不乱に、親に仕へ人を憐み、国の為に尽せしのみ、然るを他より其徳を称して聖人といへるなり、諺に、聖人々々といふは誰が事と思ひしに、おらが隣の丘が事か、といへる事あり、誠にさる事なり、我昔鳩ヶ谷駅を過し時、同駅にて不士講に名高き三志と云者あれば尋しに、三志といひては誰もしるものなし、能々問尋しかば、夫れは横町の手習師匠の庄兵衛が事なるべし、といひし事ありき、是におなじ。
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、聖人も聖人にならむとて、聖人になりたるにはあらず、日々夜々(にちにちやや)天理に随(したが)ひ人道を尽して行ふを、他より称して聖人といひしなり、堯舜(ぎょうしゅん)も一心不乱に、親に仕へ人を憐(あわ)れみ、国の為に尽せしのみ、然るを他より其徳を称して聖人といへるなり、諺(ことわざ)に、聖人々々といふは誰(た)が事と思ひしに、おらが隣の丘(きゅう)が事か、といへる事あり、誠にさる事なり、我昔鳩ヶ谷駅(はとがやえき)を過(すぎ)し時、同駅にて不士講(ふじこう)に名高き三志(さんし)と云ふ者あれば尋(たず)ねしに、三志といひては誰(たれ)もしるものなし、能々(よくよく)問尋(といたず)ねしかば、夫(そ)れは横町の手習師匠の庄兵衛が事なるべし、といひし事ありき、是(これ)におなじ。
現代語訳
翁(二宮尊徳)が言われた。聖人も、聖人になろうとして聖人になったのではない。日々夜々、天の理に従い人の道を尽くして行うのを、他人が称して「聖人」と呼んだのである。堯や舜も、ただ一心不乱に親に仕え、人を憐れみ、国のために尽くしただけだ。それを他人がその徳を称えて聖人と呼んだのである。諺に「聖人聖人というのは誰のことかと思っていたら、わしの隣の丘(孔子の弟子・顔回、あるいは身近な人物)のことか」と言うのがある。まことにその通りだ。私が昔、鳩ヶ谷の宿駅を通ったとき、その駅で富士講で名高い「三志」という者がいると聞いて訪ねたが、「三志」と言っては誰も知らない。よくよく尋ねると「それは横町の手習い師匠の庄兵衛のことだろう」と言われたことがあった。これと同じである。
解説
尊徳は、聖人とは特別な存在を目指してなるものではなく、日々ひたむきに天理に従い人の道を尽くした結果、後から他人が称えて呼ぶものだと説きます。堯舜でさえ、ただ親に仕え人を憐れみ国に尽くしただけ。立派な称号を求めたのではありません。「隣の丘のことか」という諺や、名高い三志が実は町の手習い師匠・庄兵衛だったという逸話は、偉大さが身近で地道な日常の実践の中にこそ宿ることを示しています。これは、名誉や肩書きを求めず、ただ目の前の務めに至誠を尽くす報徳の生き方そのものです。現代でも、立派になろうと背伸びするより、日々の仕事や人への誠実さを積み重ねること――そうした地道な実践の延長にしか本物の徳はないという、謙虚で力強い教えです。
この章句が説くこと
二宮翁夜話報徳至誠聖人天理人道