二宮翁夜話 / 巻之一
翁宇津氏の邸内に寓す、邸内稲荷社の祭礼に大神楽来りて、建物の戯芸をせり、翁是を見て曰、凡事此術の如くなさば、百事成らざる事あらざるべし、其場に出るや少しも噪がず、先体を定めて、両眼を見澄して、棹の先に注し、脇目も触らず、一心に見詰め、器械の動揺を心と腰に受け、手は笛を吹き扇を取て舞ひ、足は三番叟の拍子を蹈といへども、其ゆがみを見留て腰にて差引す、其術至れり尽せり、手は舞ふといへども、手のみにして体に及ばず、足は蹈といへども、足のみにして腰に及ばず、舞ふも躍るも両眼は急度見詰め、心を鎮め、体を定めたる事、大学論語の真理、聖人の秘訣、此一曲の中に備れり、然るを之を見る者、聖人の道と懸隔すと見て、此大神楽の術を賤しむ、儒生の如き、何ぞ国家の用に立んや、嗚呼術は恐るべし、綱渡りが綱の上に起臥して落ざるも又、之に同じ、能思ふべき事なり。
書き下し
翁(おきな)宇津氏の邸内に寓(ぐう)す、邸内稲荷社(いなりしゃ)の祭礼(まつり)に大神楽(だいかぐら)来りて、建物(けんもつ)の戯芸(ぎげい)をせり、翁是(これ)を見て曰(いわ)く、凡(およそ)事此(この)術の如くなさば、百事成らざる事あらざるべし、其場(そのば)に出(いず)るや少しも噪(さわ)がず、先(まず)体(たい)を定めて、両眼を見澄(みす)まして、棹(さお)の先に注(ちゅう)し、脇目(わきめ)も触(ふ)らず、一心に見詰め、器械の動揺を心と腰に受け、手は笛を吹き扇を取て舞ひ、足は三番叟(さんばそう)の拍子を蹈(ふ)むといへども、其(その)ゆがみを見留(みと)めて腰にて差引(さしひき)す、其術(じゅつ)至れり尽(つく)せり、手は舞ふといへども、手のみにして体に及ばず、足は蹈(ふ)むといへども、足のみにして腰に及ばず、舞ふも躍るも両眼は急度(きっと)見詰め、心を鎮め、体を定めたる事、大学論語の真理、聖人の秘訣、此一曲の中に備(そな)はれり、然(しか)るを之を見る者、聖人の道と懸隔(けんかく)すと見て、此大神楽の術を賤(いや)しむ、儒生(じゅせい)の如き、何ぞ国家の用に立(た)たんや、嗚呼(ああ)術は恐るべし、綱渡りが綱の上に起臥(きが)して落(お)ちざるも又、之に同じ、能(よく)思ふべき事なり。
現代語訳
翁(二宮尊徳)は宇津氏の屋敷内に寄寓していた。屋敷内の稲荷社の祭礼に大神楽の一座が来て、建物(けんもつ/傘の上で物を回す曲芸)を披露した。翁はこれを見て言われた。おおよそ物事をこの曲芸のように行えば、成らないことなど一つもないだろう。芸人はその場に出ると少しも慌てず、まず体を定め、両眼を見澄まして棹の先を凝視し、脇目もふらず一心に見詰め、器械の揺れを心と腰で受けとめる。手では笛を吹き扇を取って舞い、足では三番叟の拍子を踏みながらも、その歪みを見てとって腰で調整する。その技はまさに至れり尽くせりだ。手は舞っても手だけの動きで体には及ばず、足は踏んでも足だけの動きで腰には及ばない。舞っても躍っても両眼はしっかりと見詰め、心を鎮め、体を定めている――『大学』『論語』の真理、聖人の秘訣が、この一曲の中に備わっているのだ。ところがこれを見る者は、聖人の道とはかけ離れていると見て、この大神楽の技を卑しむ。そんな儒者などが、どうして国家の役に立とうか。ああ、技というものは恐るべきものだ。綱渡りが綱の上で寝起きして落ちないのも、また同じことである。よくよく考えるべきことだ。