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二宮翁夜話 / 巻之一

越後国の産にて、笠井亀蔵と云者あり。故ありて翁の僕たり。翁諭して曰く、汝は越後の産なり。越後は上国と聞けり。如何なれば上国を去て、他国に来れるや。亀蔵曰く、上国にあらず、田畑高価にして、田徳少し。江戸は大都会なれば、金を得る容易からんと思ふて江戸に出づと。翁曰く、汝過てり。夫れ越後は土地沃饒なるが故に、食物多し。食物多きが故に、人員多し。人員多きが故に、田畑高価なり。田畑高価なるが故に、薄利なり。然るを田徳少しと云ふ、少きにあらず、田徳の多きなり。田徳多く土徳尊きが故に、田畑高価なるを下国と見て生国を捨、他邦に流浪するは、大なる過ちなり。過ちとしらば、速にその過ちを改めて、帰国すべし。越後にひとしき上国は他に少し。然るを下国と見しは過ちなり。是を今日、暑気の時節に譬へば、蚯蚓土中の炎熱に堪兼て、土中甚熱し、土中の外に出でなば涼しき処あるべし、土中に居るは愚なりと考へ、地上に出て照り付られ死するに同じ。夫れ蚯蚓は土中に居るべき性質にして、土中に居るが天の分なり。然れば何程熱しとも、外を願はず、我本性に随ひ、土中に潜みさへすれば無事安穏なるに、心得違ひして、地上に出でたるが運のつき、迷より禍を招きしなり。夫れ汝もその如く、越後の上国に生れ、田徳少し、江戸に出でなば、金を得る事いと易からんと、思ひ違ひ、自国を捨たるが迷の元にして、みづから災を招きしなり。然れば、今日過ちを改めて速に国に帰り、小を積んで大をなすの道を、勤るの外あるべからず。心誠に爰に至らば、おのづから、安堵の地を得る必定なり。猶迷て江戸に流浪せば、詰りは蚯蚓の、土中をはなれて地上に出でたると同じかるべし。能く此理を悟り過を悔ひ能く改めて、安堵の地を求めよ。然らざれば今千金を与ふるとも、無益なるべし。我言ふ所必ず違はじ。

書き下し

越後国(えちごのくに)の産(もの)にて、笠井亀蔵(かさいかめぞう)と云ふ者あり。故ありて翁の僕(ぼく)たり。翁諭(さと)して曰(いわ)く、汝は越後の産なり。越後は上国(じょうこく)と聞けり。如何(いか)なれば上国を去りて、他国に来れるや。亀蔵曰く、上国にあらず、田畑高価にして、田徳(でんとく)少し。江戸は大都会なれば、金を得(う)る容易(たやす)からんと思ふて江戸に出づと。翁曰く、汝過(あやま)てり。夫(そ)れ越後は土地沃饒(よくじょう)なるが故に、食物多し。食物多きが故に、人員多し。人員多きが故に、田畑高価なり。田畑高価なるが故に、薄利なり。然るを田徳少しと云ふ、少きにあらず、田徳の多きなり。田徳多く土徳(どとく)尊きが故に、田畑高価なるを下国(げこく)と見て生国(しょうこく)を捨て、他邦に流浪するは、大なる過ちなり。過ちとしらば、速(すみや)かにその過ちを改めて、帰国すべし。越後にひとしき上国は他に少し。然るを下国と見しは過ちなり。是を今日、暑気の時節に譬(たと)へば、蚯蚓(みみず)土中の炎熱に堪兼(たえか)ねて、土中甚(はなは)だ熱し、土中の外に出でなば涼しき処あるべし、土中に居るは愚(ぐ)なりと考へ、地上に出て照り付けられ死するに同じ。夫れ蚯蚓は土中に居るべき性質にして、土中に居るが天の分なり。然れば何程熱(あつ)しとも、外を願はず、我本性に随(したが)ひ、土中に潜みさへすれば無事安穏なるに、心得違ひして、地上に出でたるが運のつき、迷(まよ)ひより禍(わざわい)を招きしなり。夫れ汝もその如く、越後の上国に生れ、田徳少し、江戸に出でなば、金を得る事いと易からんと、思ひ違ひ、自国を捨てたるが迷の元にして、みづから災(わざわい)を招きしなり。然れば、今日過ちを改めて速かに国に帰り、小を積んで大をなすの道を、勤(つと)むるの外あるべからず。心誠に爰(ここ)に至らば、おのづから安堵の地を得る必定(ひつじょう)なり。猶(なお)迷ひて江戸に流浪せば、詰(つま)りは蚯蚓の、土中をはなれて地上に出でたると同じかるべし。能(よ)く此理を悟り過を悔ひ能く改めて、安堵の地を求めよ。然らざれば今千金を与ふるとも、無益なるべし。我言ふ所必ず違(たが)はじ。

現代語訳

越後の生まれで、笠井亀蔵という者がいた。事情があって翁の下男になっていた。翁が諭して言われた。「お前は越後の生まれだ。越後は豊かな上国だと聞いている。どうしてその上国を離れて他国へ来たのか」。亀蔵は言った。「上国ではありません。田畑が高く、田から得る利が少ないのです。江戸は大都会だから金を得るのもたやすかろうと思って出てきました」。翁は言われた。「お前は間違っている。そもそも越後は土地が肥えているから作物が多い。作物が多いから人が多く、人が多いから田畑が高い。田畑が高いから利が薄いのだ。それを『田徳が少ない』と言うが、少ないのではない、田徳が多いのだ。田徳が多く土地の徳が尊いからこそ田畑が高い。それを下国と見て故郷を捨て他国をさすらうのは、大きな過ちだ。過ちと分かったなら、速やかに改めて帰国すべきだ。越後ほどの上国は他に少ない。それを下国と見たのが過ちなのだ。これを今の暑い季節にたとえれば、ミミズが土中の暑さに耐えかね、『土の中はひどく暑い、外へ出ればどこか涼しい所があろう、土中にいるのは愚かだ』と考えて地上に出て、照りつけられて死ぬのと同じだ。そもそもミミズは土中にいるべき性質で、土中にいるのが天から与えられた分なのだ。だからどれほど暑くても外を願わず、本性に従って土中に潜んでさえいれば無事安穏なのに、心得違いして地上に出たのが運の尽き、迷いから災いを招いたのだ。お前もそれと同じで、越後という上国に生まれながら『田徳が少ない、江戸に出れば金を得るのはたやすかろう』と思い違いをし、故郷を捨てたのが迷いのもとで、自ら災いを招いたのだ。だから今すぐ過ちを改めて速やかに国に帰り、小を積んで大をなす道に努めるほかない。心から本当にここに至れば、おのずと安住の地を得られるに決まっている。なおも迷って江戸をさすらえば、結局はミミズが土中を離れて地上に出たのと同じことになろう。よくこの道理を悟り、過ちを悔いてよく改め、安住の地を求めよ。そうしなければ、今たとえ千金を与えたところで無益であろう。私の言うことは必ず外れはしない」。

解説

故郷の越後を捨てて江戸に出た下男・笠井亀蔵を、尊徳が諭す問答形式の一条です。亀蔵は「田畑が高く実入りが少ない」と嘆きますが、尊徳は逆だと説きます。土地が肥えて作物が多く、人が集まるからこそ田畑は高い。それは土地の徳が高い証拠であって、決して下国ではないというのです。ここで持ち出されるのが「小を積んで大をなす(積小為大)」の教えと、暑さに耐えかねて地上に出て死ぬミミズのたとえです。人にはそれぞれ天から与えられた分(本分)があり、隣の芝を求めて足元を捨てれば、かえって災いを招く。今いる場所の価値を正しく見つめ、地道な努力を積み重ねよ――尊徳の現実的な人生観がよく表れています。安易に環境を変えて一発を狙うより、足元を耕せという教えは、転職や移住に迷う現代人にも響く助言です。

この章句が説くこと

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この一句を、あなたの毎日に。

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