二宮翁夜話 / 巻之三
某村に貧人の若者あり、困窮甚しといへ共、心掛宜し、曰、我貧窮は宿世の因なるべし、是余儀なき事なり、何卒して、田禄を復古し、老父母を安ぜんと云て、昼夜農事を勉強せり、或人両親の意なりとて、嫁を迎へん事を勧む、某曰、予至愚且無能無芸、金を得るの方を知らず、只農業を勉強するのみ、仍て考るに、只妻を持つ事を遅くするの外、他に良策無しと決定せりと云て、固辞す、翁是を聞て曰、善哉其志や、事を為さんと欲する者は勿論、一芸に志す者といへ共、是を良策とすべし、如何となれば人の生涯は限りあり、年月は延す可らず、然ば妻を持を遅くするの外、益を得るの策はあらざるべし、誠に善き志なり、神君の遺訓にも、己が好む処を避けて、嫌ふ処を専ら勤むべし、とあり、我道は尤此の如き者を賞すべし、等閑に置く可からず、世話掛たる者心得あるべし、夫世の中好む事を先にすれば、嫌ふ処忽に来る、嫌ふ処を先にすれば、好む処求ずして来る、盗をなせば追手が来り、物を買へば代銀を取りに来る、金を借用すれば返済の期が来り、返さゞれば差紙が来る、是眼前の事なり。
書き下し
某村(ぼうそん)に貧人の若者あり、困窮(こんきゅう)甚(はなは)だしといへども、心掛宜(よろ)し。曰(いわ)く、我が貧窮は宿世(すくせ)の因なるべし、是(これ)余儀(よぎ)なき事なり、何卒(なにとぞ)して、田禄(でんろく)を復古し、老父母を安(やす)んぜんと云ひて、昼夜農事を勉強せり。或る人両親の意なりとて、嫁(よめ)を迎へん事を勧む。某(それがし)曰く、予(よ)至愚(しぐ)且つ無能無芸、金を得るの方を知らず、只農業を勉強するのみ。仍(よっ)て考ふるに、只妻を持つ事を遅くするの外、他に良策無しと決定(けつじょう)せりと云ひて、固辞す。翁是を聞きて曰く、善(よ)い哉(かな)其の志や。事を為さんと欲する者は勿論、一芸に志す者といへども、是を良策とすべし。如何(いか)となれば人の生涯は限りあり、年月は延(のば)すべからず。然(しか)らば妻を持つを遅くするの外、益を得るの策はあらざるべし。誠に善き志なり。神君の遺訓にも、己が好む処を避けて、嫌ふ処を専ら勤むべし、とあり。我が道は尤(もっと)も此の如き者を賞すべし、等閑(なおざり)に置くべからず、世話掛りたる者心得あるべし。夫(それ)世の中好む事を先にすれば、嫌ふ処忽(たちま)ちに来る、嫌ふ処を先にすれば、好む処求めずして来る。盗(ぬすみ)をなせば追手(おって)が来り、物を買へば代銀を取りに来る、金を借用すれば返済の期が来り、返さざれば差紙(さしがみ)が来る、是眼前の事なり。
現代語訳
ある村に貧しい若者がいた。困窮は甚だしかったが、心がけがよい。彼は言った。「私の貧窮は前世からの因縁だろう。これはやむを得ないことだ。何とかして家の田地と禄を回復し、老いた父母を安心させたい」と言って、昼夜農事に励んだ。ある人が両親の意向だとして、嫁を迎えることを勧めた。若者は言った。「私は大変愚かで無能無芸、金を得る方法を知らない。ただ農業に励むだけだ。よって考えるに、ただ妻を持つのを遅らせるほかに良い策はない、と心を決めた」と言って、固く辞退した。翁がこれを聞いて言われた。よい志だ。事を成そうとする者はもちろん、一芸を志す者でも、これを良策とすべきだ。なぜなら人の生涯には限りがあり、年月は延ばせないからだ。ならば妻を持つのを遅らせるほかに、利を得る策はないだろう。誠によい志だ。神君(家康)の遺訓にも「自分の好むことを避け、嫌なことを専ら勤めよ」とある。我が道はこういう者こそ賞すべきで、なおざりにしてはならない。世話係の者は心得ておくがよい。そもそも世の中、好むことを先にすれば嫌なことがたちまち来る、嫌なことを先にすれば好むことが求めずとも来る。盗みをすれば追っ手が来り、物を買えば代金を取りに来る、金を借りれば返済期限が来て、返さなければ督促状が来る。これは目の前の事実だ。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『晏子春秋』諫下・景公欲以人禮葬走狗晏子諫景公の走狗死し、公外に之が棺を共し、内に之が祭を給せしむ。晏子聞きて、諫む。公曰く、「亦た細物なり、特だ以て左右と笑いを為すのみ」と。晏子曰く、「君過てり。夫れ厚く籍斂して以て民に反さず、貨財を棄てて左右を笑わしめ、細民の憂いに傲りて、左右の笑いを崇ぶ、則ち国も亦た望み無きのみ。且つ夫れ孤老凍餒して死すれども、狗に祭有り。鰥寡恤まれずして死すれども、狗に棺有り。行いの辟なること此の若し、百姓之を聞かば、必ず吾が君を怨まん。諸侯之を聞かば、必ず吾が国を軽んぜん。怨み百姓に聚まり、権は諸侯に軽し、而して乃ち以て細物と為すは、君其れ之を図れ」と。公曰く、「善し」と。趣やかに庖に狗を治めしめ、以て朝属に会せしむ。
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『武訓』上・第3段武士たる人は、武藝をしらずんばあるべからず。弓馬、刀劍、鎗、長刀、鳥銃、拳法なども、其の法をならはずしては、戰にのぞみて、功をなしがたし。中について、弓馬を尤まなぶべし。弓馬の二は、ことさら學ばずしては、ちからつよしとても、妄に其の術行はれず。他の武藝は、よく習ひても、治世に生れては、一生の間、一度も、其わざ用に立たざることあり。弓馬は、治世にても、日用のことなり。殊に、馬は日々のる物なれば、よく學ぶべし。
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論語・郷党篇廄焚けたり。子、朝より退きて曰く、「人を傷つけたるか。」馬を問わず。
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『武人訓抄録』・知るべきと知らぬでよい事一神武講習の道かならず不知ば有べからざる者あり、かならず不知ところの者あり、脩己治人の道、攻鋭守難の術は、かならず不知ば有べからざるものなり、其餘進で賊を討ずるに益なく、退て民を保ずるに利なきものは、かならず不知といへども又さらに害なし、をよそ時日方位器用故實の類は、職者の事業にして武將の先務にはあらず、曾子曰、籩豆之事則有司存と、神武の指も亦しかり、技用之事則職者在、總て藝士職者の關る事をば、皆其道の明達に附して學者奪ふべからず、今の小子習學の法を知らず、區々として心を衆技の細事に止む、大に不可なり、學者諒察せよ、
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『韓非子』功名第二十八人臣の憂は一を得ざるに在り、故に曰く、「右手圓を書き、左手方を書けば、兩つながら成る能わず。」
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論語・顔淵篇子貢、政を問う。子曰く、「食を足し、兵を足し、民之を信ず。」子貢曰く、「必ず已むを得ずして去らば、斯の三者に於いて何をか先にせん。」曰く、「兵を去らん。」子貢曰く、「必ず已むを得ずして去らば、斯の二者に於いて何をか先にせん。」曰く、「食を去らん。古より皆死有り、民信無くんば立たず。」

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