忍経 / 王龍舒勸誡・羞を包み辱を忍ぶは是れ男兒
杜牧之《題烏江廟詩》:「勝負兵家不可期,包羞忍辱是男兒,江東子弟多豪俊,卷土重來未可知。」 《誡斷指詩》曰:「冤屈休斷指,斷了終身恥。忍耐一些時,過後思之喜。」 何提刑《戒爭地詩》:「他侵我界是無良,我與他爭未是長。布施與他三尺地,休誇誰弱又誰強。」
新字:杜牧之《題烏江廟詩》:「勝負兵家不可期,包羞忍辱是男児,江東子弟多豪俊,巻土重来未可知。」 《誡断指詩》曰:「冤屈休断指,断了終身恥。忍耐一些時,過後思之喜。」 何提刑《戒争地詩》:「他侵我界是無良,我与他争未是長。布施与他三尺地,休誇誰弱又誰強。」
書き下し
杜牧之の『題烏江廟詩』に「勝負は兵家も期すべからず、羞を包み辱を忍ぶは是れ男兒。江東の子弟豪俊多し、卷土重來未だ知るべからず」と。 『誡斷指詩』に曰く「冤屈あるも指を斷つを休めよ、斷ち了れば終身の恥なり。忍耐すること一些の時、過ぎて後之を思へば喜ばん」と。 何提刑の『戒爭地詩』に「他の我が界を侵すは是れ無良なり、我他と爭ふも未だ是れ長ならず。布施して他に三尺の地を與へ、誰か弱く又誰か強きを誇ること休めよ」と。
現代語訳
杜牧之(唐の詩人、杜牧)の『烏江の廟に題す』の詩にはこうあります。「勝ち負けは兵法家でも予期できない。恥を包み隠し辱めを忍んでこそ男子である。江東の若者には豪傑が多かった。(項羽が恥を忍んで江東に戻っていれば)土煙を巻き上げて再び攻め上ることも、あり得なかったとは言えない」。 『指を断つことを戒める詩』にはこうあります。「無実の罪や悔しさがあっても、指を断ってはならない。断ってしまえば一生の恥となる。ほんのしばらく忍耐すれば、過ぎたあとで思い返して喜ぶことになる」。 何提刑の『土地争いを戒める詩』にはこうあります。「相手がこちらの境界を侵すのは、良くないことだ。だが私が相手と争うのも、よいやり方とは言えない。施しのつもりで三尺の土地を相手に与え、誰が弱く誰が強いかなど誇るのはやめよう」。
解説

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司馬法・天子之義上苟も不善を以て己に在りとせば、必ず其の過ちを悔ゆ。下苟も不善を以て己に在りとせば、必ず其の罪に遠ざかる。上下悪を分かつこと此くの若きは、譲の至りなり。
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『春秋左氏伝』襄公十三年 譲は礼の主なり君子曰く、「讓は禮の主なり。范宣子讓りて、其の下皆讓る。欒黶汰(おご)ると為すも、敢へて違はず。晉國以て平らかにして、數世之に賴る。善に刑(のつと)ればなり。一人善に刑れば、百姓休和す。務めざるべけんや。書に曰く、『一人慶有れば、兆民之に賴る。其の寧きこと惟れ永し』と。其れ是の謂ひか。周の興るや、其の詩に曰く、『文王に儀刑すれば、萬邦孚を作す』と。善に刑るを言ふなり。其の衰ふるに及びてや、其の詩に曰く、『大夫均しからず、我事に從ひて獨り賢(らう)す』と。讓らざるを言ふなり。世の治まるや、君子は能を尚びて其の下に讓り、小人は農力して以て其の上に事ふ。是を以て上下禮有りて、讒慝黜遠せらる。爭はざるに由るなり。之を懿德と謂ふ。其の亂るるに及びてや、君子は其の功を稱して以て小人に加へ、小人は其の技を伐(ほこ)りて以て君子を馮(しの)ぐ。是を以て上下禮無く、亂虐並び生ず。善を爭ふに由るなり。之を昏德と謂ふ。國家の敝るるは、恆に必ず之に由る」と。
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司馬法・天子之義上苟も善を伐(ほこ)らざれば、則ち驕らず。下苟も善を伐らざれば、必ず等を亡(な)くす。上下善を伐らざること此くの若きは、譲の至りなり。
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『童子問』卷中世に応ずるの道を問ふ。曰く、譲に如くは莫し。譲は実徳なり。凡そ上を犯し勝つことを好み、人と争奪するは、皆譲を忘るるより生ず。故に一たび譲立ちて、衆徳聚まる。徒に世と乖戻せざるのみに非ず、事に応じ物に接するの間に於て、最も要道為り。人にして礼譲の心無ければ、則ち他の美有りと雖も、皆観るに足らず。故に天下譲より善きは莫く、譲を知らざるより不善なるは莫し。
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『春秋左氏伝』襄公七年 韓無忌、位を弟に譲る七年春、郯子來朝す。始めて公に朝するなり。夏、四月、三たび郊を卜して從はず。乃ち牲を免(ゆる)す。孟獻子曰く、「吾乃ち今にして後、卜筮有るを知る。夫れ郊に后稷を祀るは、以て農事を祈るなり。是の故に啟蟄にして郊し、郊して後に耕す。今既に耕して郊を卜す。宜なり其の從はざるや」と。南遺、費の宰と爲る。叔仲昭伯、隧正と爲り、季氏に善くせんと欲して、媚を南遺に求む。遺に謂ふ、「請ふ、費に城け。吾多く而(なんぢ)に役を與へん」と。故に季氏、費に城く。小邾の穆公來朝す。亦た始めて公に朝するなり。秋、季武子、衛に如く。子叔の聘に報い、且つ報ゆるの緩きを辭す。貳するに非ざるなり。冬、十月、晉の韓獻子、老を告ぐ。公族穆子、廢疾有り。將に之を立てんとす。辭して曰く、「詩に曰く、『豈に夙夜せざらんや、行(みち)に露多きを謂ふ』と。又曰く、『躬らせず親らせずんば、庶民信ぜず』と。無忌は不才なり。讓ること其れ可ならんか。請ふ、起を立てん。田蘇と游びて、仁を好むと曰はる。詩に曰く、『爾の位を靖共し、是の正直を好めば、神之を聽き、爾に景福を介(たま)ふ』と。民を恤ふるを德と爲し、直を正すを正と爲し、曲を正すを直と爲し、參和するを仁と爲す。是くの如くんば則ち神之を聽き、介福之に降る。之を立つ、亦た可ならずや」と。庚戌、宣子をして朝せしめ、遂に老す。晉侯、韓無忌を仁と謂ひ、公族大夫を掌らしむ。