忍経 / 拔藩益地
陳囂與民紀伯為鄰,伯夜竊藩囂地自益,囂見之,伺伯去後,密拔其藩一丈,以地益伯,伯覺之,慚惶,自還所侵,又卻一丈。太守周府君高囂德義,刻石旌表其閭,號曰「義里」。
新字:陳囂与民紀伯為鄰,伯夜窃藩囂地自益,囂見之,伺伯去後,密抜其藩一丈,以地益伯,伯覚之,慚惶,自還所侵,又却一丈。太守周府君高囂徳義,刻石旌表其閭,号曰「義里」。
書き下し
陳囂、民の紀伯と鄰を為す。伯夜竊かに囂の地を藩して自ら益す。囂之を見、伯の去るを伺ひて後、密かに其の藩一丈を拔き、地を以て伯に益す。伯之を覺り、慚惶して、自ら侵す所を還し、又卻くこと一丈。太守周府君、囂の德義を高しとし、石に刻みて其の閭を旌表し、號して「義里」と曰ふ。
現代語訳
陳囂は民の紀伯と隣同士でした。紀伯は夜のうちにこっそり陳囂の土地に垣根を移し、自分の土地を広げました。陳囂はそれを見ていて、紀伯が立ち去ったあと、ひそかにその垣根を一丈抜いて下げ、さらに土地を紀伯に譲りました。紀伯はそれに気づくと恥じ入って恐縮し、自分が侵した分を返したうえ、さらに一丈下がりました。太守の周府君は陳囂の徳と義を高く評価し、石に刻んでその村の門に掲げて表彰し、「義里」と名付けました。
解説
境界争いを、争わずに解いた話です。陳囂は垣根を勝手に動かされても抗議せず、かえって一丈余分に譲りました。すると紀伯は恥じ入り、奪った分を返したうえ自分からも一丈下がりました。力で取り返せば恨みが残りますが、譲られた側は自分の非を自分で認めるしかなくなります。ここに、忍が相手を変える力を持つ場面があります。とはいえ、これは相手に恥を知る心があってこそ成り立つ話です。今日の境界や権利の争いでも、まず一歩引いて相手が自ら改める余地を残し、それでも通じなければ筋道を立てて求める、という順序で考えるのがよいでしょう。
この章句が説くこと
忍譲隣人徳義陳囂
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