忍経 / 謝罪敦睦・能く忍ぶと忍ぶ能はざるとの間
蘇子曰:「高帝之所以勝,項籍之所以敗,在能忍與不能忍之間而已。項籍不能忍,是以百戰百勝而輕用其鋒;高祖忍之,養其全鋒而待其弊。」 孝友先生朱仁軌,隱居養親,常誨子弟曰:「終身讓路,不枉百步;終身讓畔,不失一段。」 吳湊,僚吏非大過不榜責,召至廷詰,厚去之,其下傳相訓勉,舉無稽事。
新字:蘇子曰:「高帝之所以勝,項籍之所以敗,在能忍与不能忍之間而已。項籍不能忍,是以百戦百勝而軽用其鋒;高祖忍之,養其全鋒而待其弊。」 孝友先生朱仁軌,隠居養親,常誨子弟曰:「終身譲路,不枉百歩;終身譲畔,不失一段。」 呉湊,僚吏非大過不榜責,召至廷詰,厚去之,其下伝相訓勉,舉無稽事。
書き下し
蘇子曰く「高帝の勝つ所以、項籍の敗るる所以は、能く忍ぶと忍ぶ能はざるとの間に在るのみ。項籍は忍ぶ能はず、是を以て百戰百勝して輕しく其の鋒を用ふ。高祖は之を忍び、其の全鋒を養ひて其の弊を待つ」と。 孝友先生朱仁軌、隱居して親を養ひ、常に子弟に誨へて曰く「終身路を讓るも、百步を枉げず。終身畔を讓るも、一段を失はず」と。 吳湊、僚吏は大過に非ずんば榜責せず、召して廷に至らしめて詰り、厚くして之を去らしむ。其の下傳へて相訓勉し、舉げて稽事無し。
現代語訳
蘇子(北宋の蘇軾)は言いました。「漢の高帝(劉邦)が勝ち、項籍(項羽)が敗れた理由は、忍べたか忍べなかったかの違いにあるだけだ。項籍は忍ぶことができず、それで百戦百勝しながら、軽々しくその鋭鋒を使い果たした。高祖は忍んで、鋭鋒を無傷のまま養い、相手が疲れ果てるのを待ったのである」。 孝友先生と呼ばれた朱仁軌(唐の人)は、世を避けて親を養い、いつも子弟にこう教えました。「一生道を譲っても、百歩も遠回りすることはない。一生畑の境を譲っても、一区画も失うことはない」。 呉湊(唐の人)は、部下の役人が大きな過ちでなければ鞭打ちの罰を与えず、役所に呼んで問いただし、手厚く扱って帰しました。部下たちは互いに言い伝えて戒め合い、仕事が滞ることはまったくありませんでした。
解説
この章句が説くこと
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