忍経 / 王龍舒勸誡・一支の蓮火中に生ず
《莫爭打》詩曰:「時閑憤怒便引拳,招引官司在眼前。下獄戴枷遭責罰,更須枉費幾文錢。」 《誤觸人腳》詩云:「觸了行人腳後跟,告言得罪我當烹。此方引慝丘山重,彼卻厚情羽發輕。」 《莫應對》詩云:「人來罵我逞無明,我若還他便鬥爭。聽似不聞休應對,一支蓮在火中生。」
新字:《莫争打》詩曰:「時閑憤怒便引拳,招引官司在眼前。下獄戴枷遭責罰,更須枉費幾文銭。」 《誤触人脚》詩云:「触了行人脚後跟,告言得罪我当烹。此方引慝丘山重,彼却厚情羽発軽。」 《莫応対》詩云:「人来罵我逞無明,我若還他便鬥争。聴似不聞休応対,一支蓮在火中生。」
書き下し
『莫爭打』の詩に曰く「時閑の憤怒に便ち拳を引けば、官司を招引して眼前に在り。獄に下りて枷を戴き責罰に遭ひ、更に須らく枉げて幾文の錢を費すべし」と。 『誤觸人腳』の詩に云ふ「行人の腳後跟に觸れ了れば、告げて言ふ、罪を得たり我當に烹らるべし、と。此の方慝を引くこと丘山のごとく重ければ、彼は卻つて情を厚くして羽發のごとく輕し」と。 『莫應對』の詩に云ふ「人來りて我を罵りて無明を逞しうす、我若し他に還さば便ち鬥爭す。聽くも聞かざるが似くして應對を休めよ、一支の蓮火中に生ず」と。
現代語訳
『殴り合うな』という詩にはこうあります。「つかの間の怒りで、つい拳を振り上げれば、役所の裁きがたちまち目の前に来る。牢に入れられ首かせをはめられて罰を受け、そのうえ無駄に何文もの銭を費やす羽目になる」。 『うっかり人の足を踏んだとき』という詩にはこうあります。「道行く人のかかとを踏んでしまったら、『申し訳ない、煮られても仕方がない』と告げよ。こちらが山のように重く罪を引き受ければ、相手はかえって情を厚くして、(怒りは)羽毛のように軽くなる」。 『言い返すな』という詩にはこうあります。「人がやって来て私をののしり、煩悩の怒りをほしいままにする。私がもし言い返せば、すぐに争いになる。聞いても聞こえないふりをして、相手にするな。そうすれば火の中に一輪の蓮が咲く」。
解説
この章句が説くこと
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『忍経』王龍舒勸誡・羞を包み辱を忍ぶは是れ男兒杜牧之の『題烏江廟詩』に「勝負は兵家も期すべからず、羞を包み辱を忍ぶは是れ男兒。江東の子弟豪俊多し、卷土重來未だ知るべからず」と。 『誡斷指詩』に曰く「冤屈あるも指を斷つを休めよ、斷ち了れば終身の恥なり。忍耐すること一些の時、過ぎて後之を思へば喜ばん」と。 何提刑の『戒爭地詩』に「他の我が界を侵すは是れ無良なり、我他と爭ふも未だ是れ長ならず。布施して他に三尺の地を與へ、誰か弱く又誰か強きを誇ること休めよ」と。
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『忍経』將憤忍過片時,心便清涼彭令君曰く「一朝の憤りは以て身を亡ぼし親に及ぶべく、錐刀の利は以て家を破り業を蕩かすべし。故に紛爭は戒めざるべからず。大抵憤爭の起るや、其の初めは甚だ微にして、其の禍は甚だ大なり。所謂涓涓として壅がざれば、將に江河と為らんとし、綿綿として流れざれば、或いは網羅と成る。人能く其の初めに於て堅く忍びて之を制伏すれば、則ち便ち事無し。性は猶ほ火のごときなり。方に發するの初めは、之を戒むること甚だ易し。既已に焰熾んなれば、則ち山を焚き原を燎きて、撲滅すべからず。豈に甚だ畏るべからずや。俗語に云ふ有り『忍ぶを得ば且く忍び、誡むるを得ば且く誡めよ。忍ばず誡めざれば、小事も大と成る』と。試みに今人の憤爭して訟を致し、以て身を亡ぼし親に及び、家を破り產を蕩かすに致る者を觀るに、其の初め亦豈に大故有らんや。人に少しく觸擊せらるる有りて及べば必ず憤り、人に少しく侵淩せらるる所有れば則ち必ず爭ふ。忍ぶこと能はざるや、則ち人を罟りて、人も亦之を罵り、人を毆りて、人も亦之を毆り、人を訟へて、人も亦之を訟ふ。相怨み相仇し、各おの相勝たんことを務む。勝心既に熾んなれば、遏むべき緣無し。此れ身を亡ぼし親に及び、家を破り業を蕩かすの由なり。將に憤らんとするの初めに於て則ち便ち之を忍ぶに若くは莫し。才かに片時を過ぐれば、則ち心必ず清涼ならん。其の爭はんと欲するの初めに且く之を忍ばんことを欲す。果して侵す所の利害有らば、徐ろに禮を以て懇ろに之を問ひ、從はずして後に徐ろに之を官に訟ふるも可なり。若し官司を蒙りて、直を見て之を行ふこと稍峻なるも、亦當に委曲して以て鄰里の義を全うすべし。此くの如くすれば則ち財を傷らず、神を勞せず、身心安寧にして、人も亦信服す。此れ人世中の安樂の法なり。之を爭鬥憤競して、心を喪ひ財を費し、公庭に伺侯し、胥吏に俯仰し、囹圄に拘係せられ、本業を荒廢して以て身を亡ぼし親に及び、家を破り產を蕩かすを事とする者に比ぶれば、亦遠からずや」と。
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