忍経 / 終不自明
高防初為澶州防禦使張從恩判官,有軍校段洪進盜官木造什物,從恩怒,欲殺之。洪進給云:「防使為之。」從恩問防,防即誣伏,洪進免死。乃以錢十千、馬一匹遺防而遺之。防別去,終不自明,既又以騎追復之。歲餘,從恩親信言防自誣以活人命,從恩驚歎,益加禮重。
新字:高防初為澶州防禦使張従恩判官,有軍校段洪進盗官木造什物,従恩怒,欲殺之。洪進給云:「防使為之。」従恩問防,防即誣伏,洪進免死。乃以銭十千、馬一匹遺防而遺之。防別去,終不自明,既又以騎追復之。歳余,従恩親信言防自誣以活人命,従恩驚嘆,益加礼重。
書き下し
高防初め澶州防禦使張從恩の判官と為る。軍校段洪進の官木を盜みて什物を造る有り。從恩怒り、之を殺さんと欲す。洪進給きて云ふ「防使之を為す」と。從恩防に問ふに、防即ち誣伏し、洪進死を免る。乃ち錢十千・馬一匹を以て防に遺りて之を遺る。防別れ去るも、終に自ら明らかにせず。既にして又騎を以て追ひて之を復す。歲餘にして、從恩の親信、防の自ら誣ひて以て人命を活かせしを言ふ。從恩驚歎し、益ます禮重を加ふ。
現代語訳
高防(五代から宋初の人)ははじめ、澶州防禦使の張従恩の判官(補佐官)でした。軍の将校の段洪進が官有の木材を盗んで家具を作ったことがありました。張従恩は怒って彼を殺そうとしました。段洪進はうそをついて「判官どのがやらせたのです」と言いました。張従恩が高防に問いただすと、高防はすぐに無実の罪を認め、段洪進は死を免れました。張従恩は銭十千と馬一頭を高防に贈って、彼を去らせました。高防は別れて去りましたが、最後まで自分の潔白を明かしませんでした。まもなく張従恩は騎兵を遣わして彼を追いかけ、呼び戻しました。一年余りたって、張従恩の側近が、高防は自ら罪をかぶって人の命を救ったのだと告げました。張従恩は驚き感嘆し、いっそう礼を厚くして重んじました。
解説

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