忍経 / 恕可成德
范忠宣公親族有子弟請教於公,人曰:「唯儉可以助廉,唯恕可以成德。」其人書於座隅,終身佩服。自平生自養無重,肉不擇滋味粗糲。每退自公,易衣短褐,率以為常。自少至老,自小官至達官,終始如一。
新字:范忠宣公親族有子弟請教於公,人曰:「唯倹可以助廉,唯恕可以成徳。」其人書於座隅,終身佩服。自平生自養無重,肉不択滋味粗糲。毎退自公,易衣短褐,率以為常。自少至老,自小官至達官,終始如一。
書き下し
范忠宣公の親族に子弟の公に教へを請ふ有り。人曰く「唯だ儉以て廉を助くべく、唯だ恕以て德を成すべし」と。其の人座隅に書して、終身佩服す。自ら平生自ら養ふこと重ぬる無く、肉は滋味を擇ばず粗糲なり。每に公より退けば、衣を短褐に易へ、率ね以て常と為す。少きより老に至るまで、小官より達官に至るまで、終始一の如し。
現代語訳
范忠宣公(北宋の宰相、范純仁)の親族の若者が、公に教えを請いました。(公は)言いました。「ただ倹約だけが清廉を助け、ただ思いやりだけが徳を完成させる」。その若者はこの言葉を座右に書きつけ、生涯心に刻みました。公自身は、ふだんの暮らしで品数を重ねることがなく、肉も味を選ばず、粗末な食事でした。役所から帰るといつも粗末な短い着物に着替え、それを常としていました。若いころから老年まで、下級の官から高官に至るまで、終始変わりませんでした。
解説
范純仁が親族の若者に贈った「倹は廉を助け、恕は徳を成す」という言葉と、その言葉どおりの暮らしぶりを記した一条です。倹約が清廉を助けるのは、欲が少なければ不正に手を出す理由がなくなるからです。恕、つまり相手の身になって許す心が徳を完成させる、というのは、正しさだけでは人はついてこないという実感でしょう。范純仁は范仲淹の子で、自らも宰相まで務めましたが、食事も服装も一生変えませんでした。地位が上がるほど暮らしを変えない、という一貫性が、言葉に重みを与えています。座右の銘は、言った本人が生きてみせてこそ伝わります。
この章句が説くこと
恕倹約清廉修身范純仁
関連する章句
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『忍経』唯得忠恕范純仁嘗て曰く、「我平生學ぶ所、唯だ忠恕の二字を得たり。一生用ひて盡きず。以て朝に立ち君に事へ、僚友に接待し、宗族に親睦するに至るまで、未だ嘗て須臾も此を離れざるなり」と。又た子弟を戒めて曰く、「人至愚なりと雖も、人を責むれば則ち明なり。聰明有りと雖も、己を恕すれば則ち昏し。爾曹但だ常に人を責むるの心を以て己を責め、己を恕するの心もて人を恕せよ。聖賢の地位に到らざるを患へざるなり」と。
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『宋名臣言行録』後集巻十一・范純仁公嘗て曰く、我が平生學ぶ所は唯だ忠恕の二字を得たるのみ。一生用いて盡きず。以て朝に立ち君に事え、僚友に接待し、宗族に親睦するに至るまで、未だ嘗て須臾も此を離れざるなりと。又た子弟を戒めて曰く、人は至愚と雖も人を責むれば則ち明らかなり。聰明有りと雖も己を恕せば則ち昏し。爾曹但だ常に人を責むるの心を以て己を責め、己を恕するの心を以て人を恕せば、聖賢の地位に到らざるを患えずと。親戚の間に子弟の公に教えを請う有り。公曰く、唯だ儉のみ以て亷を助く可く、唯だ恕のみ以て德を成す可しと。其の人座隅に書して終身佩服す。
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