忍経 / 未嘗含怒
范忠宣公安置永州,課兒孫誦書,躬親教督,常至夜分。在永州三年,怡然自得,或加以橫逆,人莫能堪,而公不為動,亦未嘗含怒於後也。每對賓客,唯論聖賢修身行己,餘及醫藥方書,他事一語不出口。而氣貌益康寧,如在中州時。
新字:范忠宣公安置永州,課児孫誦書,躬親教督,常至夜分。在永州三年,怡然自得,或加以横逆,人莫能堪,而公不為動,亦未嘗含怒於後也。毎対賓客,唯論聖賢修身行己,余及医薬方書,他事一語不出口。而気貌益康寧,如在中州時。
書き下し
范忠宣公永州に安置せられ、兒孫に課して書を誦せしめ、躬親ら教督し、常に夜分に至る。永州に在ること三年、怡然として自得す。或いは加ふるに橫逆を以てし、人の堪ふる能はざるも、公為に動かず、亦未だ嘗て怒りを後に含まざるなり。每に賓客に對して、唯だ聖賢の身を修め己を行ふを論じ、餘は醫藥方書に及ぶのみ、他事は一語も口に出さず。而して氣貌益ます康寧にして、中州に在りし時の如し。
現代語訳
范忠宣公(范純仁)は永州に流されると、子や孫に書物の暗誦を課し、自ら教え励まして、いつも夜中にまで及びました。永州にいた三年間、にこやかで満ち足りていました。ときには理不尽な仕打ちを受けることもあり、人ならとても耐えられないほどでしたが、公はそれに動じず、あとになって怒りを胸に抱き続けることもありませんでした。客人に会うときはいつも、聖賢が身を修め行いを正したことだけを論じ、そのほかは医薬や処方の書に話が及ぶ程度で、ほかのことは一言も口にしませんでした。そして顔色や様子はますます健やかで、都にいたころと変わりませんでした。
解説
前の条に続く、流刑地での范純仁の暮らしぶりです。彼は子や孫の教育に打ち込み、夜中まで自ら教えました。理不尽な仕打ちを受けても動じず、しかも後から恨みを抱き続けることがありませんでした。怒りはその場で抑えても、胸の中で繰り返し思い返せば、いつまでも心を蝕みます。范純仁が健やかでいられたのは、怒りを後に持ち越さず、目の前の学びと家族に心を向けていたからでしょう。客との話題を選び、他人の悪口や政局を口にしなかったのも同じ工夫です。嫌なことがあった日に、それを何度も反芻しないことは、今でも心身を守る知恵です。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
忍怒り逆境教育范純仁
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