忍経 / 原得金帶
康定間,元昊寇邊,韓魏公領四路招討,駐延安。忽夜有人攜匕首至臥內,劇褰幃帳,魏公問:「誰何?」曰:「某來殺諫議。」又問曰:「誰遣汝來?」曰:「張相公遣某來。」蓋是時也,張元夏國正用事也,魏公復就枕曰:「汝攜予首去。」其人曰:「某不忍,願得諫議金帶,足矣!」遂取帶而去。明日,魏公亦不治此事。俄有守陴卒扳城櫓上得金帶者,乃納之。時范純祐亦在延安,謂魏公曰:「不治此事為得體,蓋行之則沮國威。今乃受其帶,是墜賊計中矣。」魏公握其手,再三歎服曰:「非琦所及也。」
新字:康定間,元昊寇辺,韓魏公領四路招討,駐延安。忽夜有人攜匕首至臥内,劇褰幃帳,魏公問:「誰何?」曰:「某来殺諫議。」又問曰:「誰遣汝来?」曰:「張相公遣某来。」蓋是時也,張元夏国正用事也,魏公復就枕曰:「汝攜予首去。」其人曰:「某不忍,願得諫議金帯,足矣!」遂取帯而去。明日,魏公亦不治此事。俄有守陴卒扳城櫓上得金帯者,乃納之。時范純祐亦在延安,謂魏公曰:「不治此事為得体,蓋行之則沮国威。今乃受其帯,是墜賊計中矣。」魏公握其手,再三嘆服曰:「非琦所及也。」
書き下し
康定の間、元昊邊を寇し、韓魏公四路招討を領して、延安に駐す。忽ち夜人有り匕首を攜へて臥內に至り、劇かに幃帳を褰ぐ。魏公問ふ「誰何ぞ」と。曰く「某來りて諫議を殺さんとす」と。又問ひて曰く「誰か汝を遣はして來らしむる」と。曰く「張相公某を遣はして來らしむ」と。蓋し是の時や、張元夏國に正に事を用ふるなり。魏公復た枕に就きて曰く「汝予が首を攜へて去れ」と。其の人曰く「某忍びず。願はくは諫議の金帶を得ば、足れり」と。遂に帶を取りて去る。明日、魏公亦此の事を治めず。俄かに守陴の卒の城櫓の上に扳りて金帶を得たる者有り、乃ち之を納む。時に范純祐も亦延安に在り、魏公に謂ひて曰く「此の事を治めざるは體を得たりと為す。蓋し之を行へば則ち國威を沮む。今乃ち其の帶を受くるは、是れ賊の計中に墜つるなり」と。魏公其の手を握り、再三歎服して曰く「琦の及ぶ所に非ざるなり」と。
現代語訳
康定年間(北宋、1040年ごろ)、西夏の元昊が国境に攻め込み、韓魏公(韓琦)は四路の招討使を率いて延安に駐屯していました。ある夜、突然匕首を持った者が寝室に入り込み、いきなり帳をまくり上げました。魏公が「誰だ」と問うと、「諫議(韓琦のこと)を殺しに来た」と言います。さらに「誰の差し金で来たのか」と問うと、「張相公に遣わされて来た」と答えました。思うにこのころ、張元が西夏の国でちょうど権勢をふるっていたのです。魏公はまた枕に頭をのせて「わしの首を持って行け」と言いました。その男は「私にはできません。諫議の金の帯をいただければ、それで十分です」と言い、帯を取って去りました。翌日、魏公はこの件を取り調べませんでした。まもなく城壁を守る兵卒が櫓によじ登って金の帯を見つけ、それを届け出ました。そのとき范純祐(范仲淹の長男)も延安にいて、魏公に言いました。「この件を取り調べなかったのは、よい処置でした。取り調べれば国の威信をくじくことになるからです。ところが今その帯を受け取ってしまっては、賊の計略にはまることになります」。魏公は彼の手を握り、何度も感嘆して「私の及ぶところではない」と言いました。
解説

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