忍経 / 非毀反己
韓魏公謂:「小人不可求遠,三家村中亦有一家。當求處之理。知其為小人,以小之處之。更不可接,如接之,則自小人矣。人有非毀,但當反己是,不是己是,則是在我而罪有彼,烏用計其如何。」
新字:韓魏公謂:「小人不可求遠,三家村中亦有一家。当求処之理。知其為小人,以小之処之。更不可接,如接之,則自小人矣。人有非毀,但当反己是,不是己是,則是在我而罪有彼,烏用計其如何。」
書き下し
韓魏公謂ふ、「小人は遠きに求むべからず、三家の村中にも亦た一家有り。當に之に處するの理を求むべし。其の小人爲るを知らば、以て之を小とし之に處す。更に接すべからず。如し之に接せば、則ち自ら小人ならん。人の非毀有らば、但だ當に己の是か不是かに反るべし。己是ならば、則ち是は我に在りて罪は彼に有り、烏んぞ其の如何を計るを用ひん」と。
現代語訳
韓魏公(韓琦)は言いました。「小人は遠くに探すまでもなく、三軒しかない村にも一軒はいるものだ。大事なのは、どう対処するかの道理を求めることだ。相手が小人だと分かったら、小人として扱い、それ以上深く関わってはならない。もし関わり合えば、自分も小人になってしまう。人に非難されたら、ただ自分が正しいかどうかを振り返ればよい。自分が正しければ、正しさはこちらにあって、罪は向こうにある。相手がどう出るかを気にかける必要などあろうか」。
解説
北宋の宰相韓琦が、つまらない人物との付き合い方を語った言葉です。小人はどこにでもいるので、いなくなることを望むより、どう処するかの道理を求めよと言います。そして小人と分かれば深入りせず、同じ土俵に上がらないことを勧めています。張り合えば自分も小人になってしまうからです。非難されたときは、まず自分が正しいかどうかを振り返り、正しければ相手の出方を気に病まなくてよいと言います。ここでの忍は、不当な攻撃を受け入れることではなく、相手の土俵に乗らない落ち着きです。理不尽な相手に振り回されそうなとき、自分の側の筋が通っているかを確かめれば、心は定まります。
この章句が説くこと
忍小人韓琦反省処世
関連する章句
-
『呻吟語』内篇・修身・腳を放ちて行けば日日長進を見る頭を回らせて看れば、年年過差有り。腳を放ちて行けば、日日長進を見る。
-
孟子・離婁章句上孟子曰く、「人を愛して親しまずんば、其の仁に反れ。人を治めて治まらずんば、其の智に反れ。人を禮して答えずんば、其の敬に反れ。行いて得ざる者有れば、皆諸を己に反求す。其の身正しければ天下之に歸す。詩に云う、『永く言、命を配し、自ら多福を求む。』」
-
司馬法・天子之義大敗には誅(ちゅう)せず、上下皆不善は己に在りと以(おも)う。
-
『呻吟語』内篇・修身・己に違ふは難し人は眾に違ふに難からずして、己に違ふに難し。能く己に違はば、眾に違ふこと何ぞ難からん。
-
『了凡四訓』謙德之效・文を作るは心氣の和平なるを貴ぶ壬辰の歲、予入覲して、夏建所に晤ふ。其の人の氣虛しく意下り、謙光人に逼るを見る。歸りて友人に告げて曰く、凡そ天の將に斯の人を發せんとするや、未だ其の福を發せずして、先づ其の慧を發す。此の慧一たび發すれば、則ち浮なる者は自ら實に、肆なる者は自ら斂まる。建所の溫良此くの若し、天之を啓けり、と。榜を開くに及び、果して式に中る。 江陰の張畏巖、學を積み文に工にして、藝林に聲有り。甲午、南京の鄉試に、一寺中に寓す。揭曉して名無し。大いに試官を罵り、以て瞇目と為す。時に一道者有り、傍らに在りて微笑す。張遽かに怒りを道者に移す。道者曰く、相公の文は必ず佳ならざらん、と。張益々怒りて曰く、汝我が文を見ず、烏くんぞ佳ならざるを知らん、と。道者曰く、聞く、文を作るは、心氣の和平なるを貴ぶ、と。今公の罵詈するを聽くに、不平甚だし。文安んぞ工なるを得ん、と。張覺えず屈服し、因りて就きて教へを請ふ。
-
『呻吟語』内篇・修身・滿口都て是れ閒談亂談且く身體力行を論ずる莫かれ。只だ聽くに隨在の聚談の間、曾て幾個か天下・國家・身心・性命の正經の道理を說けるか。終日嘵嘵刺刺として、滿口都て是れ閒談亂談なり。吾輩試みに一たび猛省せよ。士君子は天地の間に在りて此の如く日を度る可きや否や。