直毘霊 / 何の道くれの道
これをおきては、上代に、道といふものはなかりしぞかし。物のことわりあるべきすべ、萬の敎へごとをしも、何の道くれの道といふことは、異國のさだなり。
新字:これをおきては、上代に、道といふものはなかりしぞかし。物のことわりあるべきすべ、万の教へごとをしも、何の道くれの道といふことは、異国のさだなり。
書き下し
これを置きては、上代に、道というものはなかりしぞかし。物のことわりあるべきすべ、万の教えごとをしも、何の道くれの道ということは、異国のさだなり。
現代語訳
(天皇が神代のままに治める、この姿)をおいては、上代に道というものはなかったのである。物事の筋道や、あるべき方法、さまざまな教えごとを、何々の道、かれこれの道と名づけて言うのは、異国のやり方である。
解説
宣長はここで、上代の日本には「道」と呼ばれるものがなかったと断言する。物事の理や守るべき方法、あれこれの教えに「何々の道」と名を付けて掲げるのは、異国のならわしだ、と。この句は、直前に述べた、天皇が神代の古事のままに治めるありようこそが唯一のものだという主張を受け、このあと異国の成り立ちを論じる段への橋渡しになっている。儒学が「聖人の道」を立て、仏教が「仏道」を説くのに対し、名を立てること自体を外来の癖と見るのである。後段の「道あるが故に道てふ言なく」の伏線でもある。教えに名前を付けて体系化することは、その教えを強くするのか、それとも弱くするのだろうか。
関連する章句
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『直毘霊』道てふ言なく道ありしなりけり下が下まで乱るることなく、天の下は穏に治りて、天つ日嗣いや遠長に伝わり来坐り。さればかの異国の名にならいて言わば、これぞ上もなき優れたる大き道にして、実は道あるが故に道てふ言なく、道てふことなけれど、道ありしなりけり。
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『直毘霊』道といふ言挙もさらになかりき上つ代の大御世には、道という言挙もさらになかりき。故に古語に、あしはらの水穂の国は、神ながら言挙せぬ国といえり。それはただ物にゆく道こそ有りけれ。美知とは、この記に味御路と書けるごとく、山路・野路などの路に、御てふ言を添えたるにて、ただ物にゆく路ぞ。
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『直毘霊』言痛き教えも何もなかりしかど故、皇国の古は、さる言痛き教えも何もなかりしかど、
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『直毘霊』神の道と名づけらる然るをやや降りて、書籍という物渡り参り来て、それを学びよむ事始まりて後、其の国のてぶりをならいて、やや万のうえにまじえ用いらるる御代になりてぞ、大御国の古の大御てぶりをば、取り別けて神の道とは名づけられたりける。そはかの外国の道々にまがうがゆえに、神といい、又かの名を借りて、ここにも道とはいうなりけり。
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『直毘霊』二つには過ぎずさて其の聖人どもの作りかまえて、定めおきつることをなも、道とはいうなる。かかれば、唐国にして道という物も、其の旨をきわむれば、ただ人の国を奪わむがためと、人に奪わるまじきかまえとの、二つには過ぎずなもある。
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『直毘霊』道を作りて正すはかく道ということを作りて正すは、もと道の正しからぬが故のわざなるを、かえりてたけきことに思い言うこそ痴なれ。そも後の人、此の道のままに行わばこそあらめ。さる人は、よよに一人だに有りがたきことは、かの国の世々の史どもを見ても、しるき物をや。
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