直毘霊 / 二つには過ぎず
さて其聖人どもの作りかまへて、定めおきつることをなも、道とはいふなる。かゝれば、からくにゝして道といふ物も、其旨をきはむれば、ただ人の國をうばはむがためと、人に奪はるまじきかまへとの、二つにはすぎずなもある。
新字:さて其聖人どもの作りかまへて、定めおきつることをなも、道とはいふなる。かゝれば、からくにゝして道といふ物も、其旨をきはむれば、ただ人の国をうばはむがためと、人に奪はるまじきかまへとの、二つにはすぎずなもある。
書き下し
さて其の聖人どもの作りかまえて、定めおきつることをなも、道とはいうなる。かかれば、唐国にして道という物も、其の旨をきわむれば、ただ人の国を奪わむがためと、人に奪わるまじきかまえとの、二つには過ぎずなもある。
現代語訳
さて、その聖人たちが作り構えて定めておいたことを、道と呼んでいるのである。とすれば、中国で道というものも、その趣旨を突き詰めれば、ただ人の国を奪うためのものと、人に奪われないための構えと、この二つに過ぎないのである。
解説
道の正体を二つに還元してみせた一句である。人の国を奪うための術と、奪われないための備え。それ以外の何物でもない、と。仁義礼智も忠信も、この二つを覆う名にすぎない、というのが宣長の見立てだ。強引な還元だが、力がある。制度や理念を語るとき、その裏で誰が何を守り何を取ろうとしているかを見よ、という読み方を教えるからである。宣長自身、この後で「先王の道も、古への法律なるものをや」と述べ、儒者が後世の法律を非難しながら、その先王の道もまた法律ではないかと切り返している。理念の言葉を、機能に置き換えて見る目つきがここにある。
この章句が説くこと
道の正体奪うためと奪われぬ構え聖人の作りかまえ還元