名将言行録 / 『名将言行録』吉川元春 遺言が九州を動かす
○元春、疾革る時、輝元外科德琳をして、元春の病を訪ふ。元春扶け起され、德琳を近付け、輝元への返事曲に申し其後我所勞今は少し快く覺えたれば、近日輝元に對談に申べきなれども、先づ豫め其元に演説すべし、此趣能々申べきなり、今度島津退治の爲めに、殿下出馬あるべき由なり、之に依り、三家先鋒と成りて當國へ出張す、然らば輝元今度は年來戰場へ赴き給ひたると一般の思びを成し給ひては、甚だ然るべからず、何故何となれば、近年秀吉と所所に於て對陣せし時は、輝元を本陣として、隆景我等先陣に進み、自ら士卒の下知を爲し、手を碎き攻戰の功を勵めり、輝元は只帷幄の中に在りて、籌を運らされき。今は夫には引き替へて、殿下總大將にあれば、輝元は先陣の戰將と成りて、近年隆景、我等、輝元の先陣に進み、戰を決せし如くに、心得られて宜しく候、此儀申に及ばずと雖も、事の序に申にて候、又肥前の龍造寺民部大輔政家、未だ殿下の命に屬せず、今六十州の中皆殿下に手を拱し腰を折る、其間に政家一身爭でか獨立の功を建つべき、定めて和を乞ひ、安堵の思ひを爲さま欲しくぞ思ふべき、去れども便宜を得ざるに依て、空く歳月を渡るらん、幸に當家には隆信以來、志を通ぜしことなれば、輝元より使者を以て、和平の儀を勸め、殿下へ吹擧すべき由、申送られなば、政家定めて喜びに堪へず、領掌候ひなんず、彼降旗を建なば、九州退治一方の功を助くべきなり、其旨能く申べしと言含め、德琳を返せり。然る所十一月十五日、元春世を去りぬ。輝元、元春の遺言に從ひ、龍造寺へ使を以て、申入れければ、政家果して大に喜び、降人と成りて出にけり。故に肥前は申に及ばず、肥後も忽ち平らぎぬ。
新字:○元春、疾革る時、輝元外科徳琳をして、元春の病を訪ふ。元春扶け起され、徳琳を近付け、輝元への返事曲に申し其後我所労今は少し快く覚えたれば、近日輝元に対談に申べきなれども、先づ予め其元に演説すべし、此趣能々申べきなり、今度島津退治の為めに、殿下出馬あるべき由なり、之に依り、三家先鋒と成りて当国へ出張す、然らば輝元今度は年来戦場へ赴き給ひたると一般の思びを成し給ひては、甚だ然るべからず、何故何となれば、近年秀吉と所所に於て対陣せし時は、輝元を本陣として、隆景我等先陣に進み、自ら士卒の下知を為し、手を砕き攻戦の功を励めり、輝元は只帷幄の中に在りて、籌を運らされき。今は夫には引き替へて、殿下総大将にあれば、輝元は先陣の戦将と成りて、近年隆景、我等、輝元の先陣に進み、戦を決せし如くに、心得られて宜しく候、此儀申に及ばずと雖も、事の序に申にて候、又肥前の竜造寺民部大輔政家、未だ殿下の命に属せず、今六十州の中皆殿下に手を拱し腰を折る、其間に政家一身争でか独立の功を建つべき、定めて和を乞ひ、安堵の思ひを為さま欲しくぞ思ふべき、去れども便宜を得ざるに依て、空く歳月を渡るらん、幸に当家には隆信以来、志を通ぜしことなれば、輝元より使者を以て、和平の儀を勧め、殿下へ吹挙すべき由、申送られなば、政家定めて喜びに堪へず、領掌候ひなんず、彼降旗を建なば、九州退治一方の功を助くべきなり、其旨能く申べしと言含め、徳琳を返せり。然る所十一月十五日、元春世を去りぬ。輝元、元春の遺言に従ひ、竜造寺へ使を以て、申入れければ、政家果して大に喜び、降人と成りて出にけり。故に肥前は申に及ばず、肥後も忽ち平らぎぬ。
書き下し
○元春、疾革る時、輝元外科德琳をして、元春の病を訪ふ。元春扶け起され、德琳を近付け、輝元への返事曲に申し其後我所勞今は少し快く覺えたれば、近日輝元に對談に申べきなれども、先づ豫め其元に演説すべし、此趣能々申べきなり、今度島津退治の爲めに、殿下出馬あるべき由なり、之に依り、三家先鋒と成りて當國へ出張す、然らば輝元今度は年來戰場へ赴き給ひたると一般の思びを成し給ひては、甚だ然るべからず、何故何となれば、近年秀吉と所所に於て對陣せし時は、輝元を本陣として、隆景我等先陣に進み、自ら士卒の下知を爲し、手を碎き攻戰の功を勵めり、輝元は只帷幄の中に在りて、籌を運らされき。今は夫には引き替へて、殿下總大將にあれば、輝元は先陣の戰將と成りて、近年隆景、我等、輝元の先陣に進み、戰を決せし如くに、心得られて宜しく候、此儀申に及ばずと雖も、事の序に申にて候、又肥前の龍造寺民部大輔政家、未だ殿下の命に屬せず、今六十州の中皆殿下に手を拱し腰を折る、其間に政家一身爭でか獨立の功を建つべき、定めて和を乞ひ、安堵の思ひを爲さま欲しくぞ思ふべき、去れども便宜を得ざるに依て、空く歳月を渡るらん、幸に當家には隆信以來、志を通ぜしことなれば、輝元より使者を以て、和平の儀を勸め、殿下へ吹擧すべき由、申送られなば、政家定めて喜びに堪へず、領掌候ひなんず、彼降旗を建なば、九州退治一方の功を助くべきなり、其旨能く申べしと言含め、德琳を返せり。然る所十一月十五日、元春世を去りぬ。輝元、元春の遺言に從ひ、龍造寺へ使を以て、申入れければ、政家果して大に喜び、降人と成りて出にけり。故に肥前は申に及ばず、肥後も忽ち平らぎぬ。
現代語訳
○元春の病が重くなったとき、輝元は外科医の徳琳を遣わして、元春の病を見舞わせました。元春は助け起こされ、徳琳を近くに呼び、輝元への返事を細かく伝えました。このところ自分の病は少し快いので、近日輝元にじかに会って申し上げるつもりだが、まず前もってそなたに話しておく。この趣旨をよくよく伝えてほしい。今度は島津退治のために、殿下が出馬されるとのことである。これによって、三家が先鋒となって九州へ出張する。そうであれば、輝元殿は今度は、これまでの戦場へ赴かれたのと同じ思いでいては、まことによろしくない。なぜなら、近年秀吉と各所で対陣したときは、輝元殿を本陣とし、隆景と私が先陣に進み、自ら士卒を指図し、手を砕いて攻戦の功に励んだ。輝元殿はただ幕の中にあって、策を巡らされるだけであった。今はそれとは異なり、殿下が総大将であるから、輝元殿は先陣の戦将となって、近年隆景と私が輝元殿の先陣に進み戦を決したように、心得られるのがよい。この旨は申すまでもないことだが、事のついでに言っておく。また、肥前の龍造寺民部大輔政家は、いまだ殿下の命に属していない。いま六十余州の中で皆が殿下に手を拱き腰を折っている間に、政家一人がどうして独立の功を立てられようか。きっと和を乞い、安堵を得たいと思っているに違いない。しかし便宜を得ないので、むなしく歳月を過ごしているのだろう。幸い当家は隆信以来、志を通じてきた間柄であるから、輝元殿から使者を出して和平を勧め、殿下へ取り成すと申し送られれば、政家はきっと喜びに堪えず承知するだろう。彼が降参の旗を立てれば、九州退治の一方の功を助けることになる。その旨をよく伝えてほしい。そう言い含めて徳琳を帰しました。そして十一月十五日、元春は世を去りました。輝元は元春の遺言に従い、龍造寺へ使いを出して申し入れたところ、政家は果たして大いに喜び、降参して出てきました。そのため肥前はもちろん、肥後もたちまち平らぎました。
解説

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